生活費を一日で使ひ果し、使ひきれないとわざ/\人に呉れてやり、それが私の二十九日の貧乏に対する一日の復讐だつた。
細く長く生きることは性来私のにくむところで、私は浪費のあげくに三日間ぐらゐ水を飲んで暮さねばならなかつたり下宿や食堂の借金の催促で夜逃げに及ばねばならなかつたり落武者の生涯は正史にのこる由もなく、惨又惨、当人に多少の心得があると、笑ひださずにゐられなくなる。なぜなら、細々と毎日欠かさず食ふよりは、一日で使ひ果して水を飲み夜逃げに及ぶ生活の方を私は確信をもつて支持してゐた。私は市井の屑のやうな飲んだくれだが後悔だけはしなかつた。
私が鍋釜食器類を持たないのは夜逃げの便利のためではない。こればかりは私の生来の悲願であつて――どうも、いけない、私は生れついてのオッチョコチョイで、何かといふとむやみに大袈裟なことを言ひたがるので、もつともかうして自分をあやしながら私は生きつゞけてきたのだ。これは私の子守唄であつた。ともかく私はたゞ食つて生きてゐるだけではない、といふ自分に対する言訳のために、茶碗ひとつ、箸一本を身辺に置くことを許さなかつた。
私の原稿はもはや殆ど金にならなかつた。私はまつたく落伍者であつた。私は然し落伍者の運命を甘受してゐた。人はどうせ思ひ通りには生きられない。桃山城で苛々《いらいら》してゐる秀吉と、アパートの一室で朦朧としてゐる私とその精神の高低安危にさしたる相違はないので、外形がいくらか違ふといふだけだ。たゞ私が憂へる最大のことは、ともかく秀吉は力いつぱいの仕事をしてをり、落伍者といふ萎縮のために私の力がゆがめられたり伸びる力を失つたりしないかといふことだつた。
思へば私は少年時代から落伍者が好きであつた。私はいくらかフランス語が読めるやうになると長島|萃《あつむ》といふ男と毎週一回会合して、ルノルマンの「落伍者《ラテ》」といふ戯曲を読んだ。(もつともこの戯曲は退屈だつたが)私は然しもつと少年時代からポオやボードレエルや啄木などを文学ど同時に落伍者として愛してをり、モリエールやヴォルテールやボンマルシェを熱愛したのも人生の底流に不動の岩盤を露呈してゐる虚無に対する熱愛に外ならなかつた。然しながら私の落伍者への偏向は更にもつとさかのぼる。私は新潟中学といふところを三年生の夏に追ひだされたのだが、そのとき、学校の机の蓋の裏側に、余は偉大な
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