かなかつた。そのころは十銭スタンドの隆盛時代で、すこし歩くつもりならどんな夜更の飲酒にも困ることはなかつたのだ。夜明までやつてゐる屋台のおでん屋も常にあつた。もつとも、この土地にはヨタモノが多く、そのために知らない店へ行くことが不安であつたが、私はもはやそれも気にかけてゐなかつた。
ある朝、私はその日のことを奇妙に歴々と天候まで覚えてゐる。朝といつても十時半、十一時に近い頃であつた。うらゝかな昼だつた。私は都心へ用たしに出かけるため京浜電車の停留場へ急ぐ途中スタンドの前を通つたのだが、私はその日に限つて、なにがしかまとまつた金をふところに持つてゐた。ちやうどスタンドの女が起きて店の掃除を終へたところであつた。ガラス戸が開け放されてゐたので、店内の女は私を認めて追つかけてきた。
「ちよつと。どうしたのよ。あなた、怒つたの?」
「やあ、おはやう」
「あの晩はすみませんでしたわ。私、のぼせると、わけが分らなくなるのよ。又、飲みにきてちやうだいね」
「今、飲もう」
私はとつさに決意した。ふところに金のあることを考へた。用たしも流せ。金も流せ。自分自身を流すのだ。私はこの女を連れて落ちるところまで堕ちてやらうと思つた。私は落付いて飲みはじめた。女は飲まなかつた。私は朝食前であつたから、酔が全身にまはつたが、泥酔はしてゐなかつた。
「泊りに行かうよ」
と私は言つた。女は尻込みして、ニヤ/\笑ひながら、かぶりを振つた。
「行かうよ。すぐに」
私は当然のことを主張してゐるやうに断定的であつたが、女の笑ひ顔は次第に太々《ふてぶて》しく落付いてきた。
「どうかしてるわね。今日は」
「俺は君が好きなんだ」
女の顔にはあらはに苦笑が浮んだ。女は返事をしなかつたが、苦笑の中には言葉以上の言葉があつた。私は女の顔が世にも汚い、その汚さは不潔といふ意味が同時にこもつた、そしてからだが団子のかたまりを合せたやうな、それはちやうど足の短い畸型の侏儒と人間との合の子のやうに感じられる、どう考へても美しくない全部のものを冷静に意識の上に並べなほした。そして、その女に苦笑され、蔑まれ、あはれまれてゐる私自身の姿に就て考へた。うぬぼれの強い私の心に、然し、怒りも、反抗もなかつた。悔いもなかつた。さういふ太虚の状態から、人はたぶん色々の自分の心を組み立て得、意志し得る状態であつたと思ふ。私は然し堕ち
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