ひだ。行つて呉れ、このヤロー、気取りやがるな、と女は私に喚いた。なんだい、あいつが彼女かい、いけ好かない、行かなきや水をぶつかけてやるよ。そして立ち去る私のすぐ背中にガラス戸をガラガラ締めて、アバヨ、もううちぢや飲ませてやらないよ、とつとゝ消えてなくなれ、と言つた。
 私の女が夜更の道を歩いてきたのには理由があつて、女のもとへ昔の良人がやつてきて、二人は数時間睨み合つてゐたが、女は思ひたつて外へでた。男は追はなかつたさうである。そして私のアパートへ急ぐ途中、偶然、奇妙な場面にぶつかつて、露路にかくれて逐一見とゞけたのであつた。女の心事はいさゝか悲愴なものがあつたが、私のやうなニヒリストにはたゞその通俗が鼻につくばかり、私は蒲団をかぶつて酔ひつぶれ寝てしまふ、女は外套もぬがず、壁にもたれて夜を明し、明け方私をゆり起した。女はひどく怒つてゐた。女は夜が明けたら二人で旅行にでようと言つてゐたのだ。然し、私も怒つてゐた。起き上ると、私は言つた。
「なぜ昨日の出来事のやうなときに君は横から飛びだしてきて僕に帰らうと命令するのだ。君は僕を縛ることはできないのだ。僕の生活には君の関係してゐない部分がある。たとへば昨日の出来事などは君には無関係な出来事だ。あの場合君に許されてゐる特権は僕の留守の部屋へ勝手に上りこんで僕の帰りを待つことができるといふだけだ。君が偶然あの場所を通りかゝつたといふことによつて僕の行為に掣肘《せいちゅう》を加へる何の権力も生れはしない。君と僕とのつながりには、つながつた部分以上に二人の自由を縛りあふ何の特権も有り得ないのだ」
 女は極度に強情であつたが、他にさしせまつた目的があるときは、そのために一時を忍ぶ方法を心得てゐた。彼女は否応なしに私を連れだして汽車に乗せてしまひ、その汽車が一時間も走つて麦畑の外に何も見えないやうなところへさしかゝつてから
「自由を束縛してはいけないたつて、女房ですもの、当然だわ」
 もはや私は答へなかつた。私が女を所有したことがいけないのだ。然し、それよりも、もつと切ないことがある。それは私が、私自身を何一つ書き残してゐない、といふことだつた。私はそのころラディゲの年齢を考へてほろ苦くなる習慣があつた。ラディゲは二十三で死んでゐる。私の年齢は何といふ無駄な年齢だらうと考へる。今はもう馬鹿みたいに長く生きすぎたからラディゲの年齢な
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