ネ事柄であり、個人的な事柄であり、固有名詞的な事柄である。それは羨望者であって、善良な法律家にも偉大な芸術家にもともに現われてくる。フィランジエリに対してはジョゼフ・グリッパのような者が常にいるとともに、ミケランジェロに対してはトレジアーニのような者が常におり、コルネイユに対してはスキュデリーのような者が常にいる。
 われわれが言葉をかけるのは、そういう者へではなくて、本来の法律家へであり、弁証論者へであり、理論家へであり、死刑のために、その美と善の恩恵とのために、死刑に賛成する人々へである。
 ところで彼らは多くの理由をあげる。
 裁判し処刑する側の人々は、死刑を必要だと言う。第一に、なぜかなれば、社会共同体からすでにその害となりなお将来害となりうる一員を除くことは大事なことだと。――しかし、もしそれだけのことであったら、終身懲役で十分だろう。死が何の役にたつか。監獄では脱走の恐れがあるというならば、巡警をなおよくすればよい。鉄格子の強さでは不安心だというならば、どうして他に動物園などを設けておくのか。
 看守で十分なところには、死刑執行人の要はない。
 けれども、社会は復讐しなけれ
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