ノ処せられるということは、社会からそういうふうに陰険に取り扱われるからには、きわめて恐るべきことであるにちがいない。
とはいえ実のところ、右の死刑執行は全然秘密にされたものでもなかった。その朝、例のとおり、パリの四つ辻で死刑決定の報道が呼売された。そういうものを売って暮らしている人があるらしい。嘘のようだが実際、一人の不運な男の罪悪や、その懲罰や、その責苦や、その臨終の苦悶などで、一つの商品が、一つの印刷物が作られて、一スーで売られている。血のなかにさびたその銅貨ほどいまわしいものが、他に何かあるだろうか。それを拾い取る者が誰かあるだろうか。
事実はこれでもう十分だ。あまりあるほどである。すべてそれらは嫌悪すべきことではないか。死刑に左袒《さたん》すべき余地がどこにあるか。
われわれはこの質問を真剣に提出する。返答を求めて提出する。饒舌《じょうぜつ》な文学者へではなく、刑法学者へ提出する。われわれの知ってるところでは、死刑の妙味をまったく他の問題として逆説の主題とする人々がいる。また、死刑を攻撃する誰かれを憎むというだけで死刑に賛成する人々もいる。彼らにとってはそれはなかば文学的
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