モらして、もう司祭にも十字架にも注意をかさなかった。
 周囲の騒擾《そうじょう》のなかに、憐れみの叫びと喜びの叫びとを、笑いと嘆きとを、人声と物音とを、私はもう聞きわけられなかった。それらはみな一つの轟きとなって、銅の太鼓の中のように私の頭のなかに鳴りわたった。
 私の目は機械的に商店の看板を読んでいた。
 一度私は異様な好奇心にかられて、自分の進んでるほうをふりむいて見ようとした。それが、私の知性の最後の挑戦だった。しかし体はいうことをきかなかった。私の首すじは麻痺《まひ》して、前もって死んだようになっていた。
 私はただ横手に、左のほうに、河のむこうに、ノートル・ダームの塔をちらと見ただけだった。そこから見ると、その塔はもう一つの塔を隠している。見えるのは旗の立った塔だけだ。塔の上には多くの人がいた。彼らはよく見えたにちがいない。
 そして荷馬車はますます進んでゆき、商店はつぎつぎに通りすぎ、看板は書いたのや塗ったのや金色のがひきつづき、いやしい群集は泥のなかで笑い躍った。そして私は、眠ってる者が夢のままになるように、連れてゆかれるままに自分をまかせた。
 突然、私の目に映っていた
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