の名前は知らないが自分の心を知っていたこと、そして今いかに秘密な場所に彼女がいようとも、おそらくなお自分を愛していてくれるだろうということ。自分が彼女を思っているように彼女も自分を思っていないとはだれが言えよう。時として、すべて愛する者の心に起こる説明し難いあの瞬間に、悲しみの種しかないにかかわらず、ひそかに喜悦の戦慄《せんりつ》を身に感じて、彼は自ら言った、「これは彼女の思いが私に通じるのだ。」それから彼はつけ加えた、「私の思いもまたおそらく向こうに通じているだろう。」
 そういう幻を彼は自らすぐあとで打ち消しはしたが、それでもついにはそのために、時としては希望に似た一種の光明が心のうちに射《さ》してきた。折にふれて、またことに夢想家らを最も物悲しい思いに沈ませる夕方など、恋のため頭に満ちてくる夢想のうちの最も純潔で人間離れのした理想的なものを、彼は特別な手帳のうちに書き止めた。それを彼は自ら、「彼女に手紙を書く」と称していた。
 しかし、彼の理性が混乱していたと思ってはいけない。実際はそれに反対だった。彼は働く能力を失い、一定の目的に向かって確乎《かっこ》たる歩を運ぶの能力を失ってはいたが、しかし常にも増して明知と厳正とを持っていた。彼はすべて眼前に去来するものを、最も関係の少ない事物や人物をも、一種独特ではあるがしかも落ち着いた現実的な光に照らしてながめていた。一種の正直な意気|銷沈《しょうちん》と清い公平とをもって、すべてのことに正しい批判を下していた。彼の判断力は、ほとんど希望から分離して、超然として高く舞っていた。
 そういう精神状態にあって彼は、何物をも見失わず何物をも見誤らず、各瞬間ごとに、人生と人類と運命との底を見きわめていた。愛と不幸とを受くるに恥じない魂を神より恵まれた者は、たとい苦悶《くもん》のうちにあっても幸いなるかなである。愛と不幸と二重の光に照らしてこの世の事物や人の心を見たことのない者は、何ら真実なるものを見なかったのであると言うべく、何物をも知らないでいると言うべきである。
 愛しかつ悩む魂は崇高なる状態にある。
 とはいえ、一日一日と時は過ぎ、何ら新たなことも起こらなかった。彼にはただ、自分のたどるべき暗い世界が刻々にせばまってゆくように思えた。底なき淵《ふち》の岸が既にはっきりと見えてるような気がした。
「ああ私はその前にも一度彼女に会うこともできないのか!」と彼は自らくり返した。
 サン・ジャック街を進んでゆき、市門を横に見て、郭内の古い大通りをしばし左にたどってゆくと、サンテ街に達し、次にグラシエールの一郭に達し、それからゴブランの小川に至りつく少し前で、一種の野原に出られる。それはパリーをとりまく長い単調な大通りのうちで、ルイスダール([#ここから割り注]訳者注 オランダの風景画家[#ここで割り注終わり])にも腰をおろさせそうな唯一の場所である。
 何から来るとも知れない優雅な趣がそこにある。綱が張られて布が風にかわいてる緑の草原、おかしなふうに屋根窓がつけられてる大きな屋根のルイ十三世ごろの古い農園の建物、こわれかけた籬《まがき》、白楊樹の間の小さな池、婦人、笑い声、人声、また遠く地平には、パンテオンの殿堂や聾唖院《ろうあいん》の大木やヴァル・ド・グラース病院の建物などが、黒く太く異様におもしろく美しく重なり合い、更に向こうには、ノートル・ダームの塔のいかめしい四角な頂がそびえている。
 その場所はわざわざながめに行くに足るほどの景色だったが、だれもやって来る者はなかった。十分二十分とたたずんでも、ほとんど荷車一つも人夫ひとりも通らなかった。
 ところがある時、孤独な散歩を続けてるマリユスは偶然その池の近くの所までやって行った。その日は珍しくも大通りにひとりの通行人があった。マリユスはその地の寂しい景色に何となく心ひかれて、通行人に尋ねた。「ここは何という所ですか。」
 通行人は答えた。「雲雀《ひばり》の野と言います。」
 それから通行人はまた言い添えた。「ユルバックがイヴリーの羊飼いの女を殺したのはここです。」
 しかし雲雀([#ここから割り注]アルーエット[#ここで割り注終わり])という言葉を聞いて後は、マリユスの耳には何もはいらなかった。夢想の状態にあっては、わずか一言でたちまちに凝結をきたすことがある。すべての考えは突然一つの観念のまわりに凝集して、もはや他に何物をも認むることができなくなる。アルーエットというのは、マリユスの深い憂鬱《ゆううつ》の底において、ユルスュールというのに代わってる呼び名だった。不思議な独語によくある訳のわからぬ呆然《ぼうぜん》さのうちで彼は言った。「あ、これが彼女の野か。ではここで彼女の住居もわかるだろう。」
 いかにもばかげたことではあったが、そう思わざるを得なかったのである。
 そして彼は毎日、その雲雀《ひばり》の野へやってきた。

     二 牢獄のうちに芽を出す罪悪

 ゴルボー屋敷におけるジャヴェルの勝利は完全らしく思えたが、実際はそうでなかった。
 第一に、そしてジャヴェルの主要な懸念もその事にあったが、彼はそこに虜《とりこ》になってた男を捕えることができなかった。逃走する被害者は加害者よりも更に疑わしいものである。悪漢どもにとってあれほど貴重な捕虜だったその男は、たぶん官憲にとっても同じく大事な捕獲物だったに違いない。
 次に、モンパルナスもジャヴェルの手をのがれた。
 この「おしゃれの悪魔」に手をつけるには、更に他の機会を待たなければならなかった。事実を言えば、モンパルナスは大通りの並み木の下で見張りをしてるエポニーヌに出会って、父親といっしょにシンデルハンネス([#ここから割り注]死刑に会う盗賊[#ここで割り注終わり])たらんよりも娘とともにネモラン([#ここから割り注]遊惰者[#ここで割り注終わり])たらんことを望んで、彼女をよそに連れていったのである。それが彼には仕合わせとなった。彼は免れた。エポニーヌの方はジャヴェルの手で「あげられた。」しかしそれはジャヴェルのつまらない腹癒《はらい》せだった。エポニーヌはアゼルマといっしょにマドロンネット拘禁所に入れられた。
 終わりに、ゴルボー屋敷からフォルス監獄へ行く途中で、主要な捕虜のひとりたるクラクズーが姿を消した。どうして逃げたか少しもわからなかった。彼は煙にでもなったのか、指錠の中にでもはいり込んだのか、馬車の割れ目にでも流れ込んだのか、馬車が裂けでもしてそこから逃げ出したのか、刑事や巡査らにも「まったく訳がわからなかった。」ただわかったことは、監獄につくともうクラクズーはいないということだった。それには妖精《ようせい》か警官かが手を貸したに違いなかった。クラクズーは一片の雪が水の中にとけ込むように闇《やみ》の中にとけ込んでしまったのであろうか。警官らの方でひそかにかくまったのであろうか。彼は無秩序と秩序との両方にまたがる怪しい男だったのであろうか。彼は犯罪と取り締まりと両方に属する男だったのであろうか。この謎《なぞ》の男は前足を罪悪のうちにつっ込み、後足を官憲のうちにつっ込んでいたのであろうか。ジャヴェルはそういう二またの考えを認めず、そういう妥協に対しては髪を逆立てて憤ったであろう。しかし彼の一団のうちには他に警視らも交じっていて、彼の下に属してはいるが彼よりもいっそう警視庁の機密に通じてる者がいないとは限らなかった。そしてクラクズーは一方にごく有能な刑事であり得るほどの悪党だったかも知れなかった。そういう使い分けの親しい関係を暗夜の方面に保ってることは、盗賊の仕事には好都合であり、警察の仕事には便宜である。そういう両端を持する悪漢も世にはずいぶんいる。がそれはともかくとして、逃げたクラクズーの姿は再び見いだせなかった。ジャヴェルはそれについて驚いたというよりもむしろいっそう激昂《げっこう》した。
 ジャヴェルから名前を忘れられた「こわがったに違いない野呂間弁護士《のろまべんごし》」たるマリユスについては、ジャヴェルもあまり念頭にしていなかった。その上、弁護士ならいつでもまたさがし出される。しかしその男は単なる弁護士のみだったろうか?
 審問は始められていた。
 予審判事は、パトロン・ミネットの仲間のひとりを密室に監禁しない方がいいと認めた。何かを口外させようと思ったのである。選ばれたのは、プティー・バンキエ街にいた例の髪の長い男で、ブリュジョンという名だった。彼はシャールマーニュの庭に解放されて、常に監視された。
 このブリュジョンという名前は、フォルス監獄で古なじみの名前の一つだった。役人の方ではサン・ベルナールの庭と呼び、囚人の方では獅子《しし》の窖《あなぐら》と呼び、普通にはバーティマン・ヌーフの庭と言われているあの嫌悪《けんお》すべき中庭の、左手は屋根の高さまで高まっていて垢《あか》や黴《かび》が一面についてる壁の上、昔はフォルス公爵の邸宅の礼拝堂だったが今では囚人の寝室になってる建物の方へ通ずる、錆《さ》びた古い鉄の戸があるあたりに、十二年前までは石に釘《くぎ》で荒々しく彫りつけた一種の牢獄の図が見えていた。そしてその下に、「一八一一年[#「一八一一年」に傍点]、ブリュジョン[#「ブリュジョン」に傍点]」と署名がしてあった。
 この一八一一年のブリュジョンは、一八三二年のブリュジョンの父であった。
 読者がゴルボー屋敷でちょっと紹介された後者ブリュジョンは、きわめて狡猾怜悧《こうかつれいり》な快青年であったが、狼狽《ろうばい》したような訴えるような様子をしていた。密室に置くよりもシャールマーニュの庭に置いた方が役に立つだろうと思って、予審判事が彼を解放したのは、その狼狽したような様子のためだった。
 盗賊らは裁判官の手中に陥ったからといって仕事をやめるものではない。それくらいのことではびくともしない。一罪悪のために入獄しても、やはり同じように他の罪悪に着手する。彼らは美術家のような者であって、展覧会に一枚の画面を出していてもなお常に画室では新しい制作に取りかかる。
 ブリュジョンは監獄に下されたため呆然《ぼうぜん》としたらしかった。時としては、シャールマーニュの庭で、酒保の窓下に幾時間も立ちつくして、韮《にら》六十二サンチーム[#「六十二サンチーム」に傍点]というので始まり葉巻き煙草五サンチーム[#「葉巻き煙草五サンチーム」に傍点]というので終わってるその薄ぎたない定価表を、白痴のようにながめてることもあった。あるいはまた始終身を震わし歯をうち合わして、熱があると言い、病舎の二十八の寝台のどれかがあいてはいないかと尋ねていた。
 ところが不意に、一八三二年二月の末に、次の事実が露見した。その眠ってるようなブリュジョンは、そこの小僧に頼んで、自分の名前でなく仲間の三人の名前で、三種の異なった使いをしてもらい、そのために全体で五十スーの金がかかったのだった。それは法外の出費で、典獄の注意をひいた。
 種々調査し、また囚人らの面会室に掲げてある賃銭表を参照して、その五十スーは次のような内訳であることがついにわかった。三つの使い、一つはパンテオンへ十スー、一つはヴァル・ド・グラースへ十五スー、一つはグルネル市門へ二十五スー。この最後のものは賃銭表のうちで一番高いものだった。しかるに、パンテオンとヴァル・ド・グラースとグルネル市門とにはちょうど、ごく恐れられてる三人の場末浮浪人の住居があった。すなわちクリュイドニエ別名ビザロ、放免囚徒グロリユー、バールカロス、の三人だった。そしてこの事柄は彼らの上に警察の目を向けさした。彼ら三人は、バベとグールメルとのふたりの首領が監禁されてるパトロン・ミネットの与党であると推察された。ブリュジョンの贈った書き物は、それらの家へ届けられたのではなく、往来に待っていた男に届けられたので、その中には何か計画されつつある悪事に対する意見が書いてあったに違いないと想像された。それからなお他の証拠も上がった。で警察では三人の浮
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