浪人を逮捕した。そしてブリュジョンの奸計《かんけい》を頓挫《とんざ》せしめたものと思った。
そんな手段がめぐらされてから約一週間ばかりの後のある夜、バーティマン・ヌーフ([#ここから割り注]新館[#ここで割り注終わり])の一階にある寝室を視察していた巡邏《じゅんら》の監視が、箱の中に巡邏証票を入れようとする時――この、証票を箱に入れることは、監視らがその役目を正確に尽した証拠として行なわれていたことで、一時間ごとに、寝室の扉に釘付けにされてる各の箱に、一枚の証票が入れられることになっていた――その時監視は寝室ののぞき穴から、ブリュジョンが寝床に起き上がって壁につけてある蝋燭《ろうそく》の光で何かしたためてるのを見た。看守は中にはいって行った。ブリュジョンは一カ月間監房に入れられた。しかし彼が書いてたものを押さえることはできなかった。警察ではそれ以上何も知ることができなかった。
ただ一つ確かなことは、その翌日、シャールマーニュの庭から獅子《しし》の窖《あなぐら》へ、両者をへだてる六階建ての建物越しに、一つの「御者」が投げ込まれたということである。
囚人らは、巧みに丸めたパンの塊を御者[#「御者」に傍点]と称していて、監獄の建物の屋根越しに一つの中庭から他の中庭へそれを投げ込むことを[#「投げ込むことを」に傍点]、アイルランドへやると言っていた。言葉の起こりは、イギリス越しに――一つの土地から他の土地へ――アイルランドへ、ということになる。さてこのパンのたまが中庭に落ちる。それを拾った者が中を開くと、その中庭のある囚人へあてられた手紙がはいっている。それが普通の囚人に拾われる時には、手紙はあてられた者へ渡される。看守に拾われるか、または監獄では羊と呼ばれ徒刑場では狐《きつね》と呼ばれる秘密に買収された囚人に拾われる時には、手紙は事務所へ持ってゆかれて警察に渡される。
その日ちょうど御者は、あて名の男がその時離れ[#「離れ」に傍点]にはいってはいたけれども、うまくそこに行き着いた。あて名の男というのは、パトロン・ミネットの四人の首領のひとりたるバベにほかならなかった。
御者の中には一片の巻いた紙がはいっていて、その上にはわずか次の数文字がしたためてあるきりだった。
[#天から4字下げ]バベ。プリューメ街に仕事がある。庭に鉄門がついている。
それは前夜ブリュジョンが書いたものだった。
どちらにも多くの所持品検査人がいたにかかわらず、バベはフォルス監獄からその手紙を、サルペートリエール拘禁所に監禁されてるひとりの「親しい女」のもとまで送り届けてしまった。するとこんどはその女が、警察からひどくにらまれてはいたがまだ逮捕されていないマニョンという知り合いの女へ、その手紙を渡した。このマニョンという名前を読者は既に見たことがあるが、彼女は後にわかるとおりテナルディエ一家の者と関係のある女で、エポニーヌに会いに行きながら、サルペートリエールとマドロンネットとの間の橋渡しをしていた。
ちょうどその時、テナルディエに対して予審の歩を進むるうちに、娘らの方には証拠が不十分だとわかったので、エポニーヌとアゼルマとは放免されることになった。
エポニーヌが出て来る時、マニョンはマドロンネット拘禁所の門の所に待ち受けていて、ブリュジョンからバベへあてた手紙を彼女に渡し、仕事をよく調べる[#「よく調べる」に傍点]ように頼んだ。
エポニーヌはプリューメ街に行き、鉄門と庭とを見いだし、その家を調べ、偵察《ていさつ》しうかがって、それから数日後に、クロシュペルス街に住んでいたマニョンのもとへ、ビスケットを一つ持って行った。マニョンはまたそれを、サルペートリエールにいるバベの情婦に渡した。ビスケット一つは、獄裡《ごくり》の暗黒な象徴主義では、「とうていだめ[#「とうていだめ」に傍点]」という意味である。
それから一週間とたたないうちに、バベとブリュジョンとは、ひとりは「審理」に行きひとりはそれから戻ってきながら、フォルス監獄の外回りの道で行き合った。「どうだプ街は?」とブリュジョンは尋ねた。「ビスケット」とバベは答えた。
かくして、フォルス監獄でブリュジョンがこしらえた罪悪の胎児は流産してしまった。
けれどもその流産は、ブリュジョンの計画とまったく違った結果を生み出した。それはこれからわかることである。
往々にして、一つの糸を結んでいると思いながら実は他の糸を結んでいることがある。
三 マブーフ老人に現われし幽霊
マリユスはもはやだれをも訪問しなかったが、ただ時としてはマブーフ老人に出会うことがあった。
窖《あなぐら》の梯子《はしご》とも言い得べきもので、ついには頭の上に幸福な人々の歩く音が聞かるる光のない場所に達する痛むべき階段を、マリユスが徐々に下りつつあった間に、マブーフ氏の方でもまたそれを下りつつあった。
コートレー特産植物誌[#「コートレー特産植物誌」に傍点]はもう一冊も売れなかった。藍《あい》の栽培に関する実験は、日当たりの悪いオーステルリッツの小庭では少しも成功しなかった。マブーフ氏はただそこに湿気と日影とを好む少しの珍木を育てることができるばかりだった。それでも彼は落胆しなかった。彼は動植物園の日当たりのいい片すみを借り受けて、「自費で」藍《あい》の栽培を試みた。そのために、特産植物誌[#「特産植物誌」に傍点]中の銅版を質屋に入れてしまった。朝食も鶏卵二つきりにして、しかもその一つは召し使いのお婆さんに与えた。婆さんにはもう十五カ月も給金を払っていなかった。そしてまたその朝食だけで一日を過ごすこともよくあった。彼はもう例の子供のような笑いをもらさず、憂鬱《ゆううつ》になり、また訪問客にも会おうとしなかった。マリユスが訪ねて行こうかとも思わなかったのはかえってよかった。時とすると、マブーフ氏が動植物園に行く頃に、老人と青年とは互いにオピタル大通りで行き合うことがあった。彼らは口もきかずに、ただ悲しげにちょっと頭を下げた。痛ましいことではあるが、困窮のために友誼《ゆうぎ》も薄らぐ時があるものである。以前には親しい仲であったのが、今はただ通りがかりの者に過ぎなくなる。
本屋のロアイヨルは死んでいた。マブーフ氏が世の中に知ってるものはただ、自分の書籍と庭と藍だけだった。その三つのものこそ彼にとっては幸福と楽しみと希望との形だった。それだけで彼は生きてゆけた。彼は自ら言った。「藍の玉ができるようになれば、私は金持ちになれる。質屋から銅版も出してこよう。新聞に手品を使い法螺《ほら》を吹き立て広告を出して特産植物誌[#「特産植物誌」に傍点]をもはやらせよう。また一五五九年の木版刷の珍本でピエール・ド・メディヌの航行術[#「航行術」に傍点]が一部ある所も知ってるから、それを買ってこよう。」まずそれまではと言って、彼は終日藍畑で働き、夕方家に帰ると、庭に水をまき書物を読んだ。マブーフ氏はその頃もうほとんど八十歳に達していた。
ある日の夕方、彼に不思議な幽霊が現われた。
その日彼はまだ日の高いうちに戻ってきた。プリュタルク婆さんは身体が衰えていて、病気になって床についていた。彼は肉が少し残ってる骨をしゃぶり台所のテーブルの上にある一片のパンを食って晩飯をすました。そしてベンチの代わりに庭にころがした標石の上に腰掛けていた。
その石のベンチの近くには、昔の果樹園にはよくあるとおりに、角材と板とでできてもうごくいたんでる一種の大きな戸棚《とだな》みたいな小屋があって、下は兎《うさぎ》の巣になり、上は果物置き場になっていた。兎の巣には兎はいなかったが、果物置き場にはりんごが少しはいっていた。冬のたくわえの残りだった。
マブーフ氏は眼鏡をかけて二冊の書物を読み始めていた。その書物はいたく彼の興味をそそるもので、また彼ほどの老年ではいっそう重大なことであるが、彼の頭を支配してるものだった。彼の天性の臆病《おくびょう》さは、彼をある程度まで迷信に陥らしていた。二冊のうちの一つは、悪魔の変化について[#「悪魔の変化について」に傍点]というドランクル議長の有名な著述であって、も一つは、ヴォーヴェルの悪鬼とビエーヴルの妖鬼とに関して[#「ヴォーヴェルの悪鬼とビエーヴルの妖鬼とに関して」に傍点]というムュートル・ド・ラ・リュボーディエールの四折本であった。彼自身の庭が昔は妖鬼《ようき》の住んでた場所の一つだったということであるから、この第二の書物は彼にはいっそう興味が深かった。はや夕暮れの薄ら明りのため、高くにある物はほの白くなり低くにある物は黒くなりかけていた。書物を読みながら、また手の書物越しに、マブーフ老人は自分の植物をながめ、なかんずく彼の慰安の一つだったりっぱな一本の石楠《しゃくなげ》に目を止めた。暑気と風と晴天とが四日続いて一滴の雨も降らなかったあとなので、植物の茎は曲がり、蕾《つぼみ》はしおれ、葉はたれて、すべて水を欲しがっていた。石楠はことに哀れな様だった。マブーフ老人は植物にも魂があると思ってる人だった。彼は終日|藍畑《あいばたけ》で働いて疲れきっていたが、それでも立ち上がって、書物をベンチの上に置き、腰をまげよろめきながら井戸の所まで歩いて行った。そして井戸の鎖を手に取りはしたが、それをはずすだけ十分に引っ張る力はなかった。彼はふり返って、心配な目つきで空を見上げた。空には星がいっぱい出ていた。
その夕には、あるしめやかな永遠な喜びの下に人の悲しみを押さえつける清朗さがあった。が夜には、昼間と同じに乾燥したさまが見えていた。
「星が一面に出てる!」と老人は考えた。「一点の雲もない、一滴の水もない!」
そして一時もたげられた彼の頭は、再び胸の上にたれた。
が彼はまた頭を上げ、なお空をながめながらつぶやいた。
「一滴の露でいい。少しの恵みでいい。」
彼はも一度井戸の鎖をはずそうとしたが、その力がなかった。
その時彼はこういう声を聞いた。
「マブーフのお爺《じい》さん、あたしが庭に水をまいてあげましょうか。」
と同時に、獣の通るような音が籬《まがき》に起こって、藪《やぶ》の中から背の高いやせた娘らしい者が現われ、彼の前につっ立って臆面《おくめん》もなくじっと彼を見つめた。その姿は人間というよりもむしろ、薄暗がりに、生まれ出た何かの者らしかった。
狼狽《ろうばい》しやすくまた前に言ったとおりすぐにこわがるマブーフ老人が、一言の答えもできないでいるうちに、その者は薄暗がりの中に妙に唐突な身振りをして、井戸の鎖をはずし、釣瓶《つるべ》をおろしてまた引き上げ、如露に水を一杯入れてしまった。そしてぼろぼろの裳衣をつけた跣足《はだし》のままのその幽霊は、老人の見る前で、花床の間を走り回り、あたりに生命の水をまき散らした。木の葉の上に水のまかるる音を聞いて、マブーフ老人の心は狂喜の情でいっぱいになった。今は石楠《しゃくなげ》も喜んでいるように彼に思えた。
第一の釣瓶《つるべ》一杯をからにして、娘は更に二杯目を汲み、次に三杯目を汲んだ。そして庭中に水をやった。
そのようにして、破れ裂けた肩掛けを角張った両腕の上にうち振りながら、まっ黒に見える姿で小道の中を歩いてるところを見ると、何となく蝙蝠《こうもり》のように思われた。
彼女が水をまいてしまった時、マブーフ老人は目に涙をためて近づいてゆき、彼女の額に手を置いた。
「神の祝福がありますでしょう。」と彼は言った。「あなたは花の世話をなさるから天使に違いない。」
「いいえ、」と、彼女は答えた、「あたし悪魔よ。でもそんなことどうでもかまわないわ。」
老人はその答えを待ちもせず耳に入れもしないで叫んだ。
「私はごく不仕合わせで貧乏で、あなたに何もお礼ができないのが、ほんとに残念だ。」
「でもできることがあってよ。」と彼女は言った。
「何が?」
「マリユスさんの住居を教えて下さい。」
老人にはそれがわからなかった。
「マリユスさんだって?」
彼はぼん
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