レ・ミゼラブル
LES MISERABLES
第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌
ビクトル・ユーゴー Victor Hugo
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)善《よ》き

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八度|弑逆《しいぎゃく》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)刺※[#「月+各」、第3水準1−90−45]を

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Pe`gre〕 すなわち盗賊という
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   第一編 歴史の数ページ


     一 善《よ》き截断《さいだん》

 一八三一年と一八三二年とは、七月革命に直接関係ある年で、史上最も特殊な最も驚くべき時期の一つである。この二年は、その前後の時期の間にあたかも二つの山のごとくそびえている。革命の壮観があり、断崖《だんがい》が見えている。社会的集団、文明の地層、重畳し粘着せる権利関係の強固な団結、古きフランスを形成する年経たる相貌《そうぼう》、それらが各瞬間ごとに、種々の体系や熱情や理論の乱雲のうちに、そこに明滅している。それらの出現や消滅は、抵抗または運動と名づけられた。そして間欠的に、真理が、人類の魂の日光が、そこに輝き出すのを見ることができる。
 この顕著なる時期は、かなり短く、またかなりわれわれから遠ざかり始めているので、現在でも既にその主要な輪郭をつかむことができる。
 われわれはここにそれを試みてみよう。
 王政復古は、一定の批判を下すに困難な中間的局面の一つであった。かかる中間的局面には、疲労と喧騒《けんそう》と耳語と睡眠と雑踏とがあって、大国民が一宿場に到着したものにほかならない。それらの時期は特殊なものであり、それを利用せんとする為政家を欺くことが多い。最初に該国民が求むるところのものは休息のみであり、その渇望するところは平和のみであり、その欲求するところは小国民たらんとすることである。換言すれば平安でいたいということである。大なる事件、大なる事変、大なる冒険、偉大なる人物、それらももはや神よ、十分にながめ十分に得たのである。シーザーよりもむしろ無力のプルシアスが望ましく、ナポレオンよりもむしろ小国イヴトーの王が望ましい。「それはいかに善良なるかわいき王なりしよ!」夜明けより歩行を続け、長き困難なる一日を経て夕に至ったのである。第一の道程をミラボーと共にし、第二の道程をロベスピエールと共にし、第三の道程をボナパルトと共にして、今は疲れ果てている。だれも寝床を求めているのである。
 疲れたる献身と、老いたる勇壮と、遂げられたる野心と、得られたる幸運とが、さがし求め願い欲するところのものは何であるか。それは身を休むべき場所である。そして今やそれが得られている。平和と静穏と閑暇とが得られている。欠けたものは更にない。けれどもまたそれと同時に、他のある若干の事実が現われてきて、承認を求め、扉《とびら》をたたく。それらの事実は革命と戦役とから生まれ、存在し、生存し、社会のうちに地位を占むる権利を有し、また実際地位を占めている。それはおおむね住居と給養とをつかさどるものであって、ただすべての主義をして安住せしむるの準備をなすのみである。
 かくして政治的思索家の目に現われ来るものは次のことである。
 疲れたる人間が休息を求むると同時に、遂げられたる事実は保証を求むる。事実の保証は、人間の休息と同一事である。
 摂政(クロンウェル)の後にイギリスがスチェアート家に求めたところのものはそれであり、帝政の後にフランスがブールボン家に求めたところのものはそれである。
 それらの保証は時代が必要とするところのものである。りっぱに与えてやらなければならないものである。君主たる者がそれらを「欽定《きんてい》する」。しかし実際それらを与うる者は事物必然の力である。これは深き真理であり、知って有益なる真理である。しかしこの真理を一六六〇年にスチェアート家は寸毫《すんごう》だも知らず、一八一四年にブールボン家は念頭に浮かべだにしなかった。
 ナポレオンが覆滅した時フランスに帰ってきた宿命的なブールボン家は、嘆くべき単純な考えをしか持っていなかった。すなわち、与うる者は自分である、そして自分が与えた所のものはこれを再び取り戻すことを得ると。ブールボン家は神法を持っている、しかしフランスは何物をも持たない。ルイ十八世の憲法の中で国民に譲り与えた政治上の法律は、神法の一分枝に過ぎなくて、ブールボン家自らそれを折り取って、王が再び手にせんと欲する日まで人民に許し与えたものであると。しかしながら、人民へのその贈り物は実はブールボン家から贈ったものでないということを、それがたとい不快であろうともブールボン家自身感ずべきはずだったのである。
 ブールボン家は十九世紀には至って神経質であった。そして国民が翼をひろげるごとに悪い顔つきをした、平凡なる、すなわち通俗で真実なる言葉を使えば、渋面を作った。民衆はそれを見たのである。
 ブールボン家は、自分の前に帝政が劇場の大道具のごとく運び去られてしまったゆえに、自ら力を持っているものと信じた。しかし、ブールボン家自身も同じようにして持ちきたされたものであることに気づかなかった。自分もまたナポレオンを奪い去った同じ手の中にあることを知らなかった。
 ブールボン家は、自分は過去であるゆえに確固たる根を持っていると信じた。しかしそれは誤解であった。ブールボン家は過去の一部分のみであって、全過去はフランス自身であった。フランス社会の根はブールボン家の中にはなくて、国民のうちにあった。その人知れぬ頑丈《がんじょう》なる根は、一王家の権利を組織するものではなくて、一民衆の歴史を組み立てるものであった。その根は至る所にあって、ただ国王の座の下にのみ欠けていたのである。
 ブールボン家は、フランスにとってはその歴史の血にまみれたる顕著なる結び目であった。しかしもはや、その運命の主要なる要素ではなく、その政治の必要なる柱石ではなかった。ブールボン家なくとも事は足りた。実に二十二年間はブールボン家なくして済まされたのである。そこに連続は中断されていた。しかしブールボン家はそれを毫《ごう》も知らなかった。実際、ルイ十七世はなお共和熱月九日(一七九四年七月二十七日)にも君臨しルイ十八世はマレンゴーの戦いの日にも君臨していたのであると想像したブールボン家は、いかにしてそれを知る術《すべ》があったであろうか。有史以来かつて、事実の現前に対して、事実が含有し公布する神聖なる権力の配当の現前に対して、かくまで盲目なる君主は存しなかった。かつて、国君の権利と称せらるる地上の主張によって、かくまで天上の権利が拒まれたことはなかった。
 ブールボン家をして、一八一四年に「欽定《きんてい》された」保証の上に、彼らのいわゆる譲与の上に、再び手をつけしむるに至ったことは、いかに重大な誤謬《ごびゅう》であったか。痛むべきかな、彼らが譲与と名づけたところのものは、実は吾人のなした征服であり、彼らが吾人の簒奪《さんだつ》と呼んだところのものは、実は吾人の権利だったのである。
 復古政府は、時期至ったと思われた時に、ボナパルトに打ち勝ち国内に根をおろしたと想像して、換言すれば自らを強固なる根深きものと信じて、にわかに決心の臍《ほぞ》を固めてあえて事を行なわんとした。ある朝彼はフランスの面前につっ立ち声を張り上げて、その集団的資格と個人の資格とを否認し、国民には大権を拒み公民には自由を拒んだ。他の言葉をもって言えば、国民に対してはよってもって国民たるべきものを否認し、公民に対してはよってもって公民たるべきものを否認した。
 七月の勅令(一八三〇年)と称せらるるあの有名なる法令の根本は、実にそこにあったのである。
 かくて復古政府は没落した。
 その没落は至当であった。しかしながらあえて言わんに、復古政府とてあらゆる進歩の形式に絶対的敵意を有するものではなかった。すなわちそのかたわらにおいてある大事業もなされたのである。
 復古政府の下において、国民は静穏なる談論に親しむに至った、そしてそれはまさしく共和時代に欠けていたものである。また国民は平和の偉大さに親しむに至った、そしてそれはまさしく帝政時代に欠けていたものである。自由にして強大なるフランスはヨーロッパの各民衆に対しては心強い光景であった。ロベスピエールの下にあっては革命が口をきき、ボナパルトの下にあっては大砲が口をきいていた。しかるにルイ十八世およびシャール十世の下においては知力が口をきく順番となった。もはや風はやんで、炬火《たいまつ》は再びともされた。清朗なる高峰の上には純なる精神の光明がひらめくのが見られた。それこそ壮大なる有益なるかつ魅力ある光景であった。十五年の間、平和のうちに、戸外の巷《ちまた》に、偉大なる主義が働くのが見られた。それらの主義は、思想家にとってはいかにも陳腐であったが、為政家にとってはいかにも斬新《ざんしん》であった。すなわち、法律の前における平等、信仰の自由、言論の自由、印刷出版の自由、人材に対して職業の開放。そういう状態は一八三〇年まで続いた。ブールボン家は文明の一道具であって、ついに神の手のうちに握りつぶされたまでである。
 ブールボン家の没落は、彼らの方ではなく国民の方において、壮観をきわめた。彼らは粛然としかし何らの権威もなく王位を去った。彼らの滅落は、史上に陰惨なる感動を残す壮大な消滅の一つではなかった。シャール一世の幽鬼のごとき静穏でもなく、ナポレオンの鷲《わし》の叫びでもなかった。ブールボン家はただ立ち去った、それだけのことである。彼らは王冠をそこに置いた、そして自ら円光を保有しもしなかった。彼らはりっぱであった、しかしおごそかではなかった。彼らにはある程度まで不幸の壮大さが欠けていた。シャール十世はシェルブールへの旅行中、丸いテーブルを四角に切らした、そして崩壊しかけた王政よりも乱れかけた儀礼の方にいっそう心を痛めてるらしかった。かかる低落は、ブールボン家の者を愛する忠誠な人々を悲しましめ、その家がらをとうとぶまじめな人々を悲しました。しかるに民衆の方はいかにもみごとであった。ある朝、武装した王党の暴動とも言うべきものに国民は襲われた、しかし国民は自ら力あることを感じて、別に憤りもしなかった。国民はそれを防ぎ、自らおさえて、事物をその本来の場所に、すなわち政府を法律のうちに戻しブールボン家を悲しくも追放のうちに戻し、そしてそれでやめた。ルイ十四世が身を置いた天蓋《てんがい》の下から老王シャール十世を取り出し、それを静かに地に置いた。王家の人々に手を触るることを、国民はただ悲しみと用心とをもってしたのである。防障の役(一五八八年五月)の後ギーヨーム・デュ・ヴェールが発した荘重な言葉を、今更に思い起こさしめ、全世界の眼前に実行したものは、それはひとりの者ではなく、また数人の者ではなく、実にフランス自身であり、フランス全体であり、勝利を得、自らその勝利に酔ったるフランスであった。ギーヨームの言葉に曰く、「貴顕の愛顧を求むるになれ枝より枝へと飛び移る小鳥のごとくに、悲運より幸運へと向背するになれたる者どもにとりては、逆境にある君主に対して不敵なる態度を取るはいとやすきことなり。さあれ吾人にとりては、わが王の運命は常に尊重すべく、いわんや悲境にある王の運命をや。」
 ブールボン家は尊敬をにない去った、しかし愛惜をにない去りはしなかった。前に述べたとおり、彼らの不幸は彼らよりもいっそう大であった。彼らは地平の彼方に消えうせてしまった。
 七月革命は直ちに、全世
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