と叫ぶのだ。アンジョーラは満足であった。炉は既に熱せられていた。現在その瞬間にも彼は、パリーにひろがっている盟友らの一連の導火線を持っていた。コンブフェールの哲学的な鋭い雄弁、フイイーの世界主義的熱情、クールフェーラックの奇想、バオレルの笑い、ジャン・プルーヴェールの憂鬱《ゆううつ》、ジョリーの学問、ボシュエの譏刺《きし》、それらのものを彼は結合して、方々で同時に発火する電気の火花を脳裏に描き出した。皆が仕事にかかっている。確かに努力相当の結果が見らるるであろう。よろしいかな。そしてそう考えて来ると、グランテールのことが思い出された。「待てよ、」彼は自から言った、「メーヌ市門はほとんど回り道にはならない。リシュフーの家にちょっと立ち寄ってみるかな。グランテールが何をしてるか、どういうふうだか、ひとつ見てやろう。」
 ヴォージラール会堂の鐘が一時を報じた時、アンジョーラはリシェフー喫煙所に達した。彼は扉《とびら》を押し開き、中にはいり、腕を組み、後ろから肩にどしりと扉がしまるままにして、テーブルと人と煙草《たばこ》の煙とでいっぱいになってる部屋の中を見渡した。
 その靄《もや》の中に一つの声が起こって、また急にも一つの声にさえぎられていた。それは相手の男と言葉をかわしてるグランテールだった。
 グランテールはもひとりの男と向かい合って、糠《ぬか》をまきドミノの札をひろげた聖アンヌ大理石のテーブルの前にすわっていた。彼はその大理石を拳《こぶし》でたたいていた。そしてアンジョーラは次のような対話を聞いた。
「ダブル六。」
「四だ。」
「畜生、もうないや。」
「君は討ち死にだ。二だ。」
「六だ。」
「三だ。」
「一だ。」
「打ち出しは僕だよ。」
「四点。」
「弱ったね。」
「君だよ。」
「大変な失策《しくじり》をしちゃった。」
「なに取り返すさ。」
「十五。」
「それから七。」
「それでは二十二になるわけだね。(考え込んで、)二十二と!」
「君はダブル六に気をつけていなかったんだ。もし僕がそれを初めに打ってたら、あべこべになるところだった。」
「も一度二だ。」
「一だ。」
「一だと! ようし、五だ。」
「僕にはない。」
「打ち出したのは君じゃなかったか。」
「そうだ。」
「空《から》だ。」
「何かあるかな。あああるんだな! (長い沈思。)二だ。」
「一だ。」
「五も一もない。困った奴《やつ》だな。」
「ドミノ。」
「この野郎!」
[#改ページ]

   第二編 エポニーヌ


     一 雲雀《ひばり》の野

 マリユスはジャヴェルをして狩り出さしたあの待ち伏せの意外な終局を見た。しかし、ジャヴェルが捕虜らを三つの辻馬車《つじばしゃ》に乗せてその家から出て行くや否や、マリユスの方も外に忍び出た。まだ晩の九時にすぎなかった。マリユスはクールフェーラックの所へ行った。その頃クールフェーラックは、もうラタン街区に平然と居住してはいなかった。「政治上の理由」からヴェルリー街へ移転していた。そこは当時暴動の中心地ともいうべき場所の一つだった。マリユスはクールフェーラックに言った、「泊《と》めてもらいにきたよ。」クールフェーラックは寝床の二枚の蒲団《ふとん》を一枚ぬき出して、それを床《ゆか》にひろげて言った、「さあ寝たまえ。」
 翌日、朝早く七時ごろ、マリユスはゴルボー屋敷に戻ってゆき、家賃とブーゴン婆さんへの金とを払い、書物と寝床とテーブルと戸棚《とだな》と二つの椅子《いす》とを手車にのせ、住所も告げずに立ち去ってしまった。それで、前日のできごとを種々マリユスに尋ねるためにその朝再びジャヴェルがやってきた時には、ただブーゴン婆さんがいるきりで、婆さんはこう答えた。「引っ越しました。」
 ブーゴン婆さんは、前夜捕えられた盗賊らにマリユスも多少関係があったものと信じた。そして近所の門番の女たちにふれ回った。「人はわからないものだね、娘っ児のようなふうをしていたあんな若い人がさ。」
 マリユスがかく急に引っ越したには、二つの理由があった。第一には、今ではその家がのろうべきものに思えたからである。その家の中で彼は、害毒を流す富者よりもおそらくずっと恐ろしい社会の醜悪面が、すなわち邪悪なる貧民が、その最も嫌悪《けんお》すべき最も獰猛《どうもう》なる手をひろぐるのを、すぐ目近にながめたのであった。また第二には、たぶん次に起こるべき裁判に顔を出して、テナルディエに不利な証言をなさなければならなくなるだろうということを、欲しなかったからである。
 ジャヴェルの方では、名前は忘れたがその青年は、きっと恐れて逃げ出してしまったのか、あるいは待ち伏せの時に家に戻りもしなかったのだろう、と推察した。それでも彼は、多少骨折ってその行方をさがしたが、ついに見つけることができなかった。
 一月《ひとつき》は過ぎ去った、そしてまた一月が。マリユスは引き続いてクールフェーラックの所にいた。そして法廷の控所に出入りしてるある見習弁護士から、テナルディエが密室に監禁されてることを聞き出した。毎週月曜日ごとに彼は、テナルディエへあてて五フランずつをフォルス監獄の事務所へ送った。
 マリユスはもう金を持たなかったので、五フラン送るたびごとにそれをクールフェーラックから借りた。彼が他人から金を借りたのは、生まれてそれが始めてだった。それらの時を定めた五フランは、貸し与えるクールフェーラックにとっても、受け取るテナルディエにとっても、共に謎《なぞ》であった。「だれにやるんだろう?」とクールフェーラックは考えた。「だれから送って来るんだろう?」とテナルディエは怪しんだ。
 マリユスはまた悲しみの底に沈んでいた。すべては再び深淵《しんえん》の中に消えてしまった。前途には何物も認められなかった。全生涯《ぜんしょうがい》は闇《やみ》の中に陥って、彼はただ手さぐりに彷徨《ほうこう》した。愛する若い娘を、その父親らしい老人を、この世における唯一の心がかりであり唯一の希望であるその身元不明のふたりを、暗黒の中に一瞬間目近に見いだしたのだったが、彼らをついにつかみ得たと思った瞬間にはもう、一陣の風がその姿を吹き去ってしまっていた。最も恐ろしいあの衝突からさえ、一点の確実な事実もひらめき出さなかった。何ら推測の手掛かりさえもなかった。知ってると思っていた名前さえ、今はもう本当のものではなかった。確かにユルスュールではないに違いなかった。またアルーエット([#ここから割り注]雲雀[#ここで割り注終わり])というのも綽名《あだな》にすぎなかった。それからまた、老人のこともどう考えていいかわからなかった。果たして老人は警察の目から身を隠していたのであろうか。アンヴァリード大通りの付近で出会った白髪の労働者のことが、彼の頭に浮かんできた。今になってみると、その労働者とルブラン氏とはどうも同一人らしく思えてきた。それでは氏は変装していたのであろうか。その人には勇壮な方面と曖昧《あいまい》な方面とがあった。なぜあの時に助けを呼ばなかったのであろう。なぜ逃げてしまったのであろう。本当にあの若い娘の父親だろうか、またはそうでないのだろうか。最後にまた、テナルディエが見覚えのあると思ったその男に違いないのだろうか。テナルディエとて思い違いをすることもあるだろう。すべて解く術《すべ》もない問題ばかりだった。しかしそれにもかかわらず、リュクサンブールの園の若い娘は少しもその天使のごとき美しさを失わなかったことだけは、真実だった。実に痛心のきわみである。マリユスは心のうちに情熱をいだき、目には暗夜をながめていた。彼は押し放されまた引きつけられて、身動きもできなかった。愛を除いてはすべてが消えうせてしまった。しかも愛そのものについてさえ、彼は衝動と激しい光耀《こうよう》とを失っていた。われわれを燃やす愛の炎は、普通ならばまた多少われわれを輝かし、外部にも何らか有用な光をわれわれに投げ与えるものである。しかしそれらひそかな情熱の助言をも、マリユスはもはや耳にすることができなかった。「あすこへ行ってみたら」とか、「こうやってみたら」とかいうことを、彼はもう決して考えなかった。もはやユルスュールと呼べなくなった娘も、どこかにいることだけは明らかだったが、どの方面をさがしたらよいかはまったくわからなかった。今や彼の生涯は次の一語につくされていた、見透かし難い靄《もや》の中における絶対の不確実。再び彼女を見ること、それを彼は常に熱望していたが、しかしもうそれができるという期待は持たなかった。
 その上にまた、貧困が戻ってきた。氷のようなその息を、彼はすぐ近くに背後に感じた。種々の苦悶《くもん》のうちにあって既に長い間、彼は仕事をやめていた。およそ世に仕事を放擲《ほうてき》するくらい危険なことはない。それは一つの習慣がなくなることである。しかも捨てるにたやすく始めるに困難な習慣である。
 ある程度までの夢想は、一定の分量の麻酔剤のごとく有効なものである。それは、労苦せる知力の時としては荒い熱をもしずめる、そして精神のうちにさわやかな柔らかい潤《うるお》いを生じさして、醇乎《じゅんこ》たる思索の、あまりに峻厳《しゅんげん》な輪郭をなめらかにし、処々の欠陥や間隙《かんげき》をうずめ、全体をよく結びつけ、観念の角をぼかしてくれる。しかしあまりに多くの夢想は人を沈めおぼらす。思索からまったく夢想のうちに陥ってゆく精神的労働者は災いなるかなである。彼は再び上に浮かび出すことは容易であると信じ、要するに同じであると考える。しかしそれは誤りである。
 思索は知力の労苦であり、夢想は知力の逸楽である。思索を追ってその後に夢想を据えるのは、食物に毒を混ずるに等しい。
 マリユスは読者の記憶するとおり、まずそういう道をたどっていった。情熱が襲ってきて、ついに彼を対象のない底なき夢幻のうちにつき落としてしまった。家を出るのはただ夢を見に行くためばかりである。無用のものを産むばかりである。騒擾《そうじょう》と沈滞との淵《ふち》である。そして仕事が減ずるとともに、欠乏は増加していった。それは自然の法則である。人は夢想の状態にある時、必然に放埒《ほうらつ》となり柔惰となる。弛緩《しかん》した精神は張りつめた生活を保つことができない。そういう生活態度のうちには、善と悪とが混在している。柔弱は有害であるとしても寛大は健やかで有益だからである。しかしながら、働くことをしない寛大で高貴で貧しい人はもはや救われることができない。収入の源は涸《か》れ、必要のものは多くなる。
 それこそ致命的な坂であって、最も正直な者も最も堅固な者も、最も弱い者や最も不徳な者と同じくすべり落ちて、ついには二つの穴のいずれかへ、自殺か罪悪かのいずれかへ陥るのほかはない。
 夢想しに行かんがために家をいでながら、ついには水に身を投ぜんがために家を出る日が到来する。
 過度の夢想はエスクースやルブラのごとき人物を作り出す([#ここから割り注]訳者注 共同して戯曲を書きその劇が失敗して悲観の余り自殺せる人[#ここで割り注終わり])。
 マリユスは見失った彼女の上に目を据えながらそういう坂を徐々に下っていった。とこう言うのは少し変ではあるがしかし事実である。目前にいない者の追想は心のやみの中に輝き出す。深く姿を消せば消すほどますます輝いてくる。絶望した暗い心は自分の地平にその光輝を見る。内心の暗夜に光る星である。彼女[#「彼女」に傍点]、そこにマリユスのすべての思いがあった。彼は他のことをいっさい頭に浮かべなかった。彼はただ漠然《ばくぜん》と感じた、古い上衣は既に着れなくなり、新しい上衣は古くなり、シャツはすり切れ、帽子は破れ、靴《くつ》は痛んでいることを、すなわち自分の生活が摩滅していったことを。そして彼は自ら言った、「死ぬ前にただ彼女に再び会うことができさえするならば!」
 楽しいただ一つの考えが彼に残っていた、彼女が自分を愛していたこと、彼女の目つきがそれを自分に告げたこと、彼女は自分
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