驍フだ。お前は女のあとを追っかけてる、そんなことは言わなくてもわかる。わしは世の中のだれからも顧みられない。それだのにお前はわしに慈悲を願うのか。ばかな! モリエールだってそんなことは思いついてやしない。そんなことを言って裁判所を笑わせようというんなら、弁護士諸君、私は心からお祝いするよ。おかしな奴《やつ》らだ。」
そして百歳近くの老人は、怒ったいかめしい声で言い続けた。
「いったい、わしにどうしろと言うのだ?」
「私があなたの前に出ますのは、お心に逆らうこととは存じております。」とマリユスは言った。「しかし私はただ一つお願いしたいことがあって参りました。それがすめばすぐに出て行きます。」
「お前はばかだ!」と老人は言った。「だれが出て行けと言った?」
その一言は、「まあわしの許しを[#「まあわしの許しを」に傍点]乞《こ》え[#「え」に傍点]、わしの首に飛びついてこい[#「わしの首に飛びついてこい」に傍点]!」という心の底のやさしい言葉を言い換えたものであった。ジルノルマン氏はマリユスが間もなく自分のもとを去ってゆくに違いないと感じた。喜んで迎えなかったために彼を反抗さし、酷《きび》しい態度をしたため彼を追い返すことになったと感じた。老人は自らはっきりそう思った。そのために彼の悲しみはますます大きくなった。その悲しみがすぐに憤怒に変わったので、彼の厳酷さはまた増してきた。彼はマリユスにその心持ちを了解してもらいたかったであろう。しかしマリユスは了解しなかった。そのことは老人を激昂《げっこう》さした。彼は言った。
「これ、お前はこのわしを、お前の祖父を捨てて行った。お前は家を出てどこかへ行ってしまった。お前は伯母《おば》を心配さした。そして何をしたんだ。言わずとわかってる。その方がいいからさ。放埒《ほうらつ》な生活をし、遊び歩き、勝手な時間に帰ってき、おもしろいことをし、働いた様子も見せず、払ってくれとも言わないで借金をし、よその家の窓ガラスをこわし、乱暴なまねをし、そして四年ぶりにわしの所へ戻ってきたんだ。わしに言いたいのはそれだけのことだろう!」
孫の愛情を得るためのその荒々しいやり方は、かえってただマリユスを黙らせるだけだった。ジルノルマン氏は彼独特の妙に傲然《ごうぜん》たる腕組みをして、苦々《にがにが》しくマリユスに言いかけた。
「こんな話はやめだ。お前は何かわしに願いにきたと言ったが、いったい何だ、何のことだ? 言ってみるがいい。」
「あの、」とマリユスは深淵《しんえん》の中に落ち込みかけてる者のような目つきをして言った、「私はあなたに、結婚の許しをお願いに参りました。」
ジルノルマン氏は呼び鈴を鳴らした。バスクが扉《とびら》を少し開いた。
「娘を呼んでこい。」
それからすぐに扉が再び開いて、ジルノルマン嬢が、はいってはこないで身体だけを見せた。マリユスは黙ったまま腕をたれ、罪人のような顔をして立っていた。ジルノルマン氏は室《へや》の中をあちらこちら歩き回っていた。彼は娘の方に向いて言った。
「何でもない。これはマリユスさんだ。ごあいさつをするがいい。この人は結婚をしたいんだそうだ。それだけだ。もう行っていい。」
老人の切れ切れな嗄《か》れた声の調子は、ひどく激昂《げっこう》しきってることを示していた。伯母《おば》はびっくりした様子でマリユスをながめ、その姿もよくわからないといったふうで、何の身振りも言葉も示さず、暴風の前の枯れ葉よりも早く父の一息のために吹きやられてしまった。
そのうちにジルノルマン老人は暖炉に背を寄せかけた。
「お前が結婚する! 二十一歳で! 自分できめて、ただ許しだけを願う、それも形式だけに! まあすわるがいい。ところで、お前に会わないうちに革命が起こった。ジャコバン党が勝った。お前は満足に違いない。お前は男爵になってから共和派にもなってるだろう。二つを調和さしてる。共和は男爵の位に味を添えるからね。お前は七月革命で勲章でももらったか。ルーヴル宮殿にも少しは手を出したか。すぐこの近く、ノナン・ディエール街と向き合ったサン・タントアーヌ街に、ある家の四階の壁に弾丸《たま》が一つ打ち込んである。そして一八三〇年七月二十八日というしるしがついてる。行って見るがいい。ためになるだろう。お前たちの仲間はなるほど結構なことをするよ。それからベリー公の記念碑の所に噴水をこしらえてるというじゃないか。そんなことをして、それでお前は結婚したいというのか。だれとだ。そういうことはやたらに言い出せるものではない。」
彼は言葉を切った。そしてマリユスが答える暇もなく、また激しく言い出した。
「どうだ、お前には身分ができたろう。財産ができたろう。弁護士の仕事をしてどれくらいとれるのか。」
「一文もとれません。」とマリユスは荒い決心と確乎《かっこ》さとをもって言った。
「一文もとれない? ではわしがやる千二百フランだけで暮らしてゆかなけりゃならないんだな。」
マリユスは答えなかった。ジルノルマン氏は続けて言った。
「では、思うに、女が金持ちだな。」
「私と同じようなものです。」
「なに! 持参金もないのか。」
「ありません。」
「遺産の当てでもあるのか。」
「ありそうもありません。」
「身体だけ! そして父親は何だ。」
「存じません。」
「そして娘の名は何というんだ。」
「フォーシュルヴァン嬢といいます。」
「フォーシュ……何だ。」
「フォーシュルヴァンです。」
「ちェッ!」と老人は舌うちした。
「どうぞ!」とマリユスは叫んだ。
ジルノルマン氏は独語でもするような調子で彼の言葉をさえぎった。
「なるほど、二十一歳、身分はなし、年に千二百フラン、ポンメルシー男爵夫人が八百屋《やおや》に二スーの芹《せり》を買いに行こうってわけだな。」
「どうぞ、」とマリユスは最後の望みもなくなったのに茫然《ぼうぜん》として言った、「お願いです。私は天に誓って、手を合わしてあなたの足下に身を投げて、お願いします。私にその婦人と結婚することを許して下さい!」
老人は鋭い痛ましい笑いとともに咳《せ》き込み、そして言った。
「はっ、はっ、はっ、お前はこんなことを考えたんだろう。なあに、あの旧弊な老耄《おいぼれ》を、あの訳のわからぬばか爺《じじい》を、一つ見に行ってやれ。二十五歳になっていないのが残念だ。二十五歳にさえなっていりゃあ、結婚承諾要求書をさしつけてやるんだがな。あんな奴《やつ》あってもなくてもいいんだがな。でもまあいいや、こう言ってやれ。お爺《じい》さん、私に会ってうれしいだろう、私は結婚したいんだよ、何とかいう嬢さんと結婚したいんだ、どこかの男の娘さんだ、私には靴《くつ》もないし、女にはシャツもない、ちょうど似合ってる、私は仕事も未来も若さも生命も、水にでもぶっ込んでしまいたい、私は女の首っ玉にかじりついて、貧乏の中に飛び込んでしまいたい、それが私の理想だ、お前は是非とも同意しなけりゃいけない。そう言ったらあのひからびた老耄も同意するだろう。そしてこう言うだろう。なるほど、好きなようにするがいい、その石ころを背負い込むがいい、お前のプースルヴァンとかクープルヴァンとかと結婚するがいいとね。――ところがいけない。断じていかん!」
「お父さん!」
「いかん!」
この「いかん」という語が発せられた調子に、マリユスはすべての希望を失った。彼は頭をたれ、よろめきながら、徐々に室《へや》の中を退いていった。それは立ち去る人というよりも、むしろ死にかかってる人のようであった。ジルノルマン氏は彼を目送していたが、扉《とびら》が開かれてマリユスが外に出ようとした時、性急ながむしゃらな老人の敏活さで数歩進んで、マリユスの首筋をつかみ、激しく室《へや》の中に引き戻し、肱掛《ひじか》け椅子《いす》の上に投げ倒し、そして言った。
「まあよく話せ!」
そう彼の態度が変わったのは、マリユスが偶然発した「お父さん[#「お父さん」に傍点]」という一語のためだった。
マリユスは茫然《ぼうぜん》として彼をながめた。ジルノルマン氏の変わりやすい顔にはもう、露骨な名状し難い人の好《よ》さしか現われていなかった。後見人は祖父と代わったのであった。
「さあ話すがいい。お前の艶種《つやだね》を、女のことをすっかり私に言ってしまいなさい。どうも、若い者ときたら仕方がない。」
「お父さん!」とマリユスは言った。
老人の顔には何とも言えない輝きが満ちた。
「うむ、そうだ、わしをお父さんと呼ぶがいい、聞いてやるから。」
その時にはもうその粗暴さのうちにも、ある親切なやさしい打ち明けた親身《しんみ》らしい調子がこもっていて、マリユスは突然落胆から希望に移ってゆき、そのためにぼんやりして酔ったようになった。彼はテーブルのそばにすわっていたので、服装の見すぼらしさが蝋燭《ろうそく》の光に目立ち、ジルノルマン老人はそれを見て驚いた。
「で、お父さん!」とマリユスは言った。
「いかにも、」とジルノルマン氏はさえぎった、「お前はまったく一スーもないんだね。お前の様子は泥坊のようだ。」
彼は引き出しの中を探り、金入れを取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「さあ、ここに百ルイ([#ここから割り注]二千フラン[#ここで割り注終わり])ある。帽子でも買うがいい。」
「お父さん、」とマリユスは言い出した、「ねえお父さん、どんなにか私は彼女を愛してることでしょう。御想像もつきますまい。始めて会ったのはリュクサンブールの園でした。彼女はいつもそこにやってきました。初め私は大して気にも止めませんでした。けれどそれから、どうしたのか自分でもわかりません、いつか恋するようになりました。ああそのために私はどんなにか心を痛めたでしょう。そして今では、毎日、彼女の家で会っています。父親はそれを知りません。ところが、察して下さい、その親子は遠くに行こうとしています。私たちは晩に庭で会っています。父親につれられてイギリスに行くというんです。それで私は、お祖父様《じいさま》に会って話してみようと考えました。別れるようなことがあれば、私はきっと気が変になります。死にます、病気になります、水に身を投げます。どうしても結婚しなければなりません。狂人《きちがい》になりそうですから。事実はそれだけです。言い落としたことはないつもりです。彼女はプリューメ街の鉄門のある庭に住んでいます。アンヴァリードの方です。」
ジルノルマン老人は、顔を輝かしてマリユスのそばにすわっていた。彼に耳を傾けその声音《こわね》を味わいながら、また同時にゆるゆるとかぎ煙草《たばこ》を味わっていた。ところがプリューメ街という一語を聞いて、彼は煙草をかぐのをやめ、煙草の残りを膝《ひざ》の上に落とした。
「プリューメ街! プリューメ街だな。……待てよ……その近くに兵営はないかね。……そうだ、それだ。お前の従兄《いとこ》のテオデュールがそのことを言っていた。あの槍騎兵《そうきへい》の将校だ。……いい娘、そう、いい娘だそうだ。……うむ、プリューメ街。昔はブローメ街と言った所だ。……ようやく思い出した。プリューメ街の鉄門の娘のことなら、わしも聞いたことがある。庭の中。パメラ([#ここから割り注]訳者注 リチャードソンの小説中の女主人公[#ここで割り注終わり])のような美人、お前の眼識は悪くない。きれいだという評判だ。ここだけの話だが、あの槍騎兵《そうきへい》のばかめも少しからかっているらしい。どれくらい進んだ話かわしは知らん。だがそんなことはどうでもいい。その上あいつの言うことはあてにならん。ほらをふくからな。マリユス、お前のような若い者が女を思うのはあたりまえだ。お前の年齢《とし》だからな。ジャコバン党より色男の方がわしは好きだ。ロベスピエールにつかまってるより、娘っ児につかまってる方がいい、何人いてもかまわん。わしにしたところで、確かに、革命家どものうちでも女だけは愛したものだ。美人はいつでも美人だからな。それに異論があるはず
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