ウした。自然の真実な感情にはいつも起こってくることではあるが、あんなふうに出て行ってしまった恩知らずの孫に対する祖父の愛情は、孫が目の前にいないだけにいっそう強くなるばかりであった。人が最も太陽のことを考えるのは、十二月の夜十度ほどの寒さになる時である。しかしジルノルマン氏にとっては、祖父たる自分が孫の方へ一歩ふみ出して行くということは、実際何よりなし難いことだった、もしくはなし難いことだと思っていた。「むしろ死のうとも……」と彼は言った。彼は自分の方には何らの非をも認めなかった。しかしマリユスのことを思う時には、深い愛着と、暗黒のうちに消え去らんとする老人が感ずる暗黙の絶望とを、いつも感ずるのであった。
 彼の歯ももうなくなりかけていた。そのために彼の悲しみはいっそう深くなった。
 ジルノルマン氏は、腹立たしい不名誉なことだったから自らはっきり認めてはいなかったが、かつてどの女をもマリユスほどに愛したことはなかったのである。
 彼は自分の居室に、寝台の枕頭《まくらもと》に、目をさましてまず第一に見られるようにという具合に、亡《な》くなったもひとりの娘、すなわちポンメルシー夫人の古い肖像を置かしていた。彼女が十八歳の時のものである。彼は絶えずそれをながめていた。ある日、彼はそれをながめながらこんなことを言った。
「よく似ている。」
「本人にでしょう?」とジルノルマン嬢は言った、「ええよく似ています。」
 老人は言い添えた。
「そしてまたあいつにも。」
 またある時、彼が両膝《りょうひざ》を寄せ目をほとんど閉じて、がっかりしたような姿ですわっていた時、娘は彼に言ってみた。
「お父さん、あなたはまだ怒っていらっしゃるのですか。」
 彼女はそれ以上を言い得ないで言葉を切った。
「だれを?」と彼は尋ねた。
「あのかわいそうなマリユスを。」
 彼は年取った頭をもたげ、やせて皺《しわ》寄った拳《こぶし》をテーブルの上に置き、きわめていら立った震える調子で叫んだ。
「かわいそうなマリユスだと! あの男はばかだ、悪党だ、恩知らずの見栄坊《みえぼう》だ。不人情な、心無しの、傲慢《ごうまん》な、けしからん男だ!」
 そして彼は目にわいてきた一滴の涙を娘に見せないように、顔をそむけた。
 それから三日たって、四時間も黙り込んでいた後、だしぬけに娘に言った。
「もう決してあいつのことを言わないようにと、私《わし》はジルノルマン嬢にお願いをしといたはずだ。」
 ジルノルマン嬢はもう何としてもだめだとあきらめ、次のような深い診断を下した。「お父さんは妹をも、あの間違いがあってからはあまりよく思っていらっしゃらなかった。マリユスもきらっていらっしゃるのに違いない。」
「あの間違いがあってからは」というのは、妹が大佐と結婚してからはという意味であった。
 それからまた、読者の既に察し得たろうとおり、ジルノルマン嬢は自分の好きな槍騎兵《そうきへい》の将校をマリユスの代わりに据えようという試みに失敗していた。後任のテオデュールはうまくゆかなかった。ジルノルマン氏はこれがいけなければあれを取ろうという人ではなかった。心の空虚には間に合わせの穴ふさぎではだめである。またテオデュールの方でも、遺産を嗅ぎつけてはいたが、きげんを取るのはいやだった。老人は将校を退屈させ、将校は老人に不快を与えた。中尉テオデュールはたしかに快活ではあったが、しかし饒舌《じょうぜつ》だった。華美ではあったが、しかし凡俗だった。元気な男ではあったが、しかし素行はよくなかった。実際情婦も持っており、実際それを吹聴《ふいちょう》しもしたが、しかしその話し方が下等だった。彼のあらゆる長所もそれぞれ欠点を持っていた。ジルノルマン氏は彼がバビローヌ街の兵営の付近でやってる艶事《つやごと》の話を聞き飽きてしまった。その上ジルノルマン中尉は、時々三色の帽章をつけ軍服を着てやってきた。ジルノルマン老人にはそれがまた堪《たま》らなくいやだった。彼はついに娘に言った。「もうあのテオデュールはたくさんだ。よかったらお前だけ会うがいい。わしは泰平の日に軍人を見るのはあまり好まない。サーベルを引きずって歩く奴《やつ》よりサーベルを振り回す奴の方がまだしもいいかもしれん。戦争で刃を合わせる方が往来の舗石《しきいし》に剣の鞘《さや》をがちゃがちゃやるより、とにかくまだまさってる。それに、からいばりをして反《そ》っくり返り、女の児のように腹帯をしめ、胸当ての下にコルセットをつけることなんか、ばかばかしさの上塗りだ。本当の男子は、虚勢を張ったり気取ったりするものではない。いやに強がったりでれでれしたりしはしない。テオデュールはお前の所だけにしておくがいい。」
 そして娘が、「でもあなたの甥《おい》の子ではありませんか」と言ったところでむだなことだった。ジルノルマン氏は爪《つめ》の先まで祖父ではあったが、一点も大伯父たるところはなかった。
 実のところ、彼は才智をそなえていてふたりを比較していたので、テオデュールがいることはますますマリユスを惜しむの念を強めるばかりだった。
 ある晩、六月の四日であったが、ジルノルマン老人はなお暖炉に盛んな火をたかして、娘を隣室に退かせ縫い物をさしていた。そして彼はひとりで牧歌的な飾り立てをした室《へや》に残っていて、薪台の上に足を置き、コロマンデルの広い九枚折り屏風《びょうぶ》に半ば囲まれ、緑色の笠《かさ》の下に二本の蝋燭《ろうそく》が燃えているテーブルに肱《ひじ》をつき、毛氈《もうせん》の肱掛け椅子《いす》に身を埋め、手に一冊の書物を持っていた。しかし別にそれを読んでるのでもなかった。いつものとおりアンクロアイヤブル([#ここから割り注]執政内閣時代の軽薄才子[#ここで割り注終わり])式の服装をして、ちょうどガラー([#ここから割り注]訳者注 大革命から帝政時代の政治家[#ここで割り注終わり])の古い肖像を見るがようであった。そんな服装で往来に出ようものなら人だかりがするかも知れなかったが、娘はいつも彼が出かける時には司教のような広い綿入れの絹外套《きぬがいとう》を着せてやったので、人の目につかなかったのである。家にいる時には、起き上がった時と寝る時とのほかは決して居間着をつけなかった。「あれを着ると老人らしく見える[#「あれを着ると老人らしく見える」に傍点]、」と彼は言っていた。
 ジルノルマン老人はマリユスのことを考えると、かわいくなったり苦々《にがにが》しくなったりしたが、普通は苦々しさの方が強かった。そのいら立った愛情は、しまいには煮えくり返って、憤怒に終わるのが常であった。そして後には、あきらめをつけて心を痛めるものをじっと受け入れようとするほどになっていた。彼は自ら説き聞かしていた、もうマリユスが帰って来るはずはない、帰って来るものならとくに帰ってるはずである、もうあきらめなければならないと。そして、もう万事終わりだ、自分は「あの男」に再び会わないで死んでゆくのだ、という考えになれようとつとめていた。しかし彼の天性はそれに反抗した。年老いた親身《しんみ》の心はそれに同意することができなかった。それでも彼は口癖になってる悲しい言葉をくり返した、「なに、帰ってきはすまい!」彼はそのはげた頭を胸にたれ、痛ましい激昂《げっこう》した目つきを炉の灰の上にぼんやり定めていた。
 そういう夢想の最中に、老僕のバスクがはいってきて、そして尋ねた。
「旦那様《だんなさま》、マリユス様をお通し申してよろしゅうございましょうか。」
 老人はまっさおになって身を起こした。電流のために起《た》たされた死骸《しがい》のようだった。全身の血は心臓に流れ込んでしまった。彼は口ごもった。
「何のマリユス様だ?」
「存じません。」とバスクは主人の様子に驚き恐れて答えた。「私がお会いしたのではございません。ニコレットが私の所へきて申しました、若い方がみえています、マリユス様と申し上げて下さいと。」
 ジルノルマン老人は低い声でつぶやいた。
「お通し。」
 そして彼は同じ態度のままで、頭を振り動かしながら扉《とびら》を見つめていた。扉は開いた。ひとりの青年がはいってきた。マリユスであった。
 マリユスははいれと言われるのを待つかのように、扉の所に立ち止まった。
 彼の見すぼらしい服装は、蝋燭《ろうそく》の笠《かさ》が投げてる影の中でよく見えなかった。ただその落ち着いたまじめなしかも妙に悲しげな顔だけがはっきり見えていた。
 ジルノルマン老人は驚きと喜びとでぼんやりして、あたかも幽霊の前に出たように、ただぽーっとした光を見るきりで、しばらく身動きもできなかった。彼は気を失わんばかりであった。彼は眩惑《げんわく》しながらマリユスを見た。確かに彼だった、確かにマリユスだった。
 ついにきた、四年の後に! 彼は言わば一目でマリユスの全部を見て取った。マリユスは美しく、気高く、りっぱで、大きくなり、一人前の男になり、申し分のない態度になり、みごとな様子になっていた。彼は両腕をひろげ、その名を呼び、飛びつきたいほどだった。彼の心は喜びに解け、愛のこもった言葉は胸いっぱいになってあふれかけた。ついにその愛情はわき上がって、脣《くちびる》まで上ってきた。しかし常に反対の道をゆく奥底の性質のために、脣からは荒々しい言葉が出た。彼はだしぬけに言った。
「何しにここへやってきた?」
 マリユスは当惑して答えた。
「あの……。」
 ジルノルマン氏は自分の腕にマリユスが身を投じてくるのを欲したであろう。彼はマリユスにもまた自分自身にも不満だった。自分は粗暴でありマリユスは冷淡であることを彼は感じた。内心はいかにもやさしく悲しいのに外部の態度は冷酷でしかあり得ないことを感ずるのは、老人にとってたえ難いいら立ちの種だった。苦々《にがにが》しい気持ちが彼に戻ってきた。彼は気むずかしい調子でマリユスの言葉をさえぎった。
「では何のためにきたんだ?」
 その「では」という言葉は、わしを抱擁しにきたのでないなら[#「わしを抱擁しにきたのでないなら」に傍点]という意味だった。マリユスは青ざめて大理石のような顔をしてる祖父をながめた。
「あの……。」
 老人は酷《きび》しい声で言った。
「わしの許しを願いにきたのか。自分の悪かったことがわかったのか。」
 彼はマリユスを正道に引き戻してやったのだと思っていた、「子供」が我《が》を折りかけてるのだと思っていた。マリユスは身を震わした。祖父が求めているのは父を捨てることであった。彼は目を伏せて答えた。
「いいえ。」
「それでは何の用だ?」と老人は憤怒に満ちた悲痛の情を以って急《せ》き込んで叫んだ。
 マリユスは両手を握り合わせ、一歩進み出て、弱い震え声で言った。
「あの、少しお慈悲を。」
 その言葉はジルノルマン氏の心を刺激した。も少し早く言われたら、彼は心を和らげたであろう。しかしもう遅かった。祖父は立ち上がった。彼は両手で杖にすがり、脣《くちびる》はまっ白になり、額は筋立っていたが、その高い身体は首垂《うなだ》れてるマリユスの上にそびえた。
「お前に慈悲をかける! 九十一歳の老人に向かって若い者が慈悲を求めるというのか! お前は世間にはいっており、わしは世間から出ている。お前は芝居や舞踏会や珈琲《コーヒー》店や撞球《たまつき》場に出入りし、気がきいており、女の気に入り、男振りがいい。わしは夏の最中でも火にかじりついてる。お前は富の中での富である若さを持ってる。わしは老人の貧しさを、衰弱と孤独とを持ってる。お前は三十二枚の歯と、いい胃袋と、はっきりした目と、力と、食欲と、健康と、元気と、森のような黒い髪とを持ってる。わしはもう白髪《しらが》も持たず、歯も足の力も記憶さえも失ってる、シャルロ街とショーム街とサン・クロード街の三つの名前さえ絶えずまちがえてる、それほどになってるのだ。お前は光り輝く未来を前途に持ってる。わしはもう光が少しも見えなくなりかけてる、それほど暗闇《くらやみ》の中にふみこんで
前へ 次へ
全73ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング