フ奴隷《どれい》のそばにいるような気がした。ふたりの魂は深く混同し合って、それを取り戻そうとしても、どれが自分のかわからないほどになってるように思われた。
「これは私のだ。――いえそれは私のよ。――あなたはきっと思い違いをしてる、これは確かに私のだ。――あなたが自分だと思ってるのは、それは私よ。」マリユスはコゼットの一部であり、コゼットはマリユスの一部であった。マリユスは自分のうちにコゼットが生きてるのを感じた。コゼットを持つ、コゼットを所有する、ということは彼にとっては息をするのと同じだった。そして、かかる信念、かかる心酔、かかる潔い異常な絶対の所有、かかる主権、そのさなかに、「私たちはここを出立する」という言葉がにわかに落ちてきて、現実の突然な声は彼に叫んだのだった、「コゼットは汝のものではない!」
 マリユスは目をさました。六週間この方マリユスは、既に言ったとおり、人生の外に生きていた。しかるに今「出立する」という言葉は、激しく彼を人生のうちにつき戻した。
 彼は一言も口をきくことができなかった。コゼットはただ彼の手がごく冷たいのを感じた。そしてこんどは彼女が言った。
「どうかしたの?」
 彼はコゼットがようやく聞き得たくらいの低い声で答えた。
「私にはあなたの言ったことがわからない。」
 彼女は言った。
「今朝《けさ》お父さんが私におっしゃったのよ、細かいものを皆整えて用意をするようにって。そして鞄《かばん》の中に入れるシャツを下すったの。旅をしなければならないんですって。いっしょに行くんですって。私には大きい鞄がいるし、お父さんには小さい鞄がいるのよ。そして今から一週間のうちに支度をするのよ。おおかたイギリスに行くだろうとおっしゃったわ。」
「ひどい!」とマリユスは叫んだ。
 その時確かにマリユスの考えによれば、いかなる権力の濫用《らんよう》も、いかなる暴戻《ぼうれい》も、極悪な暴君のいかなる非道も、ブジリスやチベリウスやヘンリー八世のいかなる行為も、フォーシュルヴァン氏が自分の用のために娘をイギリスに連れてゆくということくらい、おそらく乱暴なことはないのであった。
 彼は弱々しい声で尋ねた。
「そしていつ発《た》つの。」
「いつともおっしゃいませんでした。」
「そしていつ帰って来るの。」
「いつともおっしゃいませんでした。」
 マリユスは立ち上がって、冷ややかに言った。
「コゼット、あなたは行くんですか。」
 コゼットは心痛の色に満ちた美しい目を彼の方へ向け、当惑したように答えた。
「どこへ?」
「イギリスへ。あなたは行くんですか。」
「なぜそんなよそよそしい言い方をなさるの?」
「あなたが行くかどうか聞いてるんです。」
「私にどうせよとおっしゃるの。」彼女は手を組み合わして言った。
「ではあなたは行くんですか。」
「もしお父さんが行かれるなら。」
「あなたは行くんですね。」
 コゼットはマリユスの手を取り、答えをしないでそれを握りしめた。
「いいです。」とマリユスは言った。「それでは私も外の所へ行きます。」
 コゼットはその言葉の意味を、了解したというよりむしろ直覚した。彼女はまっさおになって、暗い中にその顔が白く見えた。彼女はつぶやいた。
「あなたは何を言うの。」
 マリユスは彼女をながめ、それから静かに目を空の方へ上げて答えた。
「何でもありません。」
 彼は目を下げた時、コゼットが自分の方へほほえんでるのを見た。愛する女のほほえみは暗夜に見える光明である。
「私たちはほんとにばかだこと。ねえ、私にいい考えがあってよ。」
「どんな?」
「私どもが出立したら、あなたも出立なさいな。行く先をあなたに教えてあげるわ。そして私が行く所にあなたもいらっしゃいね。」
 マリユスは今ではまったく夢想からさめた男であった。彼は再び現実に戻っていた。彼はコゼットに叫んだ。
「いっしょに出立する! 気でも違ったんじゃない? 出立するには金がいる。私には金はないんだ。イギリスへ行くって? でも私は今、あなたの知らない人だがクールフェーラックという友人から、何でも二百フランもの借りがある。それに持ってる物と言ったら、三フランの価値《ねうち》もない古帽子、胸のボタンがとれてる上衣、シャツは裂けてるし、肱《ひじ》はぬけてるし、靴《くつ》には水がはいってくる。この六週間の間私はもうそんなことは考えもしなかったし、あなたにも言わなかったけれど。コゼット、私はほんとうに貧乏なんだよ。あなたは私を見るのは夜分だけで、そして私に愛を与えてくれる。けれどもし昼間私を見たら、一スーの金でも恵んでくれるでしょうか。イギリスへ行く! 私にはその旅行券の代もない。」
 彼はそこにあった一本の木によりかかり、立ったまま、頭の上に両手を組み、木の幹に額を押しつけ、自分の皮膚をいためる木をも感ぜず、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に激しく脈打っている熱をも感ぜず、身動きもせず、倒れんばかりになって、絶望の立像かと思われるほどだった。
 彼は長い間そうしていた。あたかも深淵《しんえん》の中に永遠に立ちつくしてるがようだった。がついに彼はふり向いた。やさしい悲しい押さえつけたような小さな音が後ろに聞こえたのである。
 コゼットがすすり泣いてるのだった。
 彼女はもう二時間以上も前から、夢想してるマリユスのそばで涙を流していたのである。
 彼は彼女のそばに寄り、ひざまずき、そして静かに身を伏せて、長衣の下から出てる彼女の足先を取り、それに脣《くちびる》をつけた。
 彼女は黙ったまま彼のなすに任した。うち沈み忍従してる女神のように、女には愛の宗教を受け入れる瞬間があるものである。
「泣かないでね。」と彼は言った。
 彼女はつぶやいた。
「私はたいてい行かなければならないし、それにあなたは来ることができないとすれば!」
 彼は言った。
「私を愛してくれる?」
 彼女は涙の中から来る時最も魅惑的になる楽園の言葉を、すすり泣きながら答えた。
「心から慕ってるの。」
 彼は言葉につくし難い愛撫《あいぶ》の調子で言った。
「泣いちゃいや。ねえ、私のためにどうか泣かないでね。」
「あなたは私を愛して下すって?」と彼女は言った。
 彼は彼女の手を取った。
「コゼット、私はだれにもまだ誓いの言葉を言ったことはない。誓いの言葉は恐ろしいから。私はいつも父が自分のそばに立ってるような気がする。でも私は今一番神聖な誓いの言葉をあなたに言おう。ねえ、あなたが私のもとを去れば、私は死んでしまう。」
 彼がその言葉を発した調子のうちには、きわめて荘重な静粛な憂愁がこもっていて、コゼットは身をおののかした。悲痛な真実なものが通りかかる時に与える一種の冷気を、彼女は感じた。そしてその感動を受けて泣くのをやめた。
「あのね、」と彼は言った、「明日《あした》は私を待たないんだよ。」
「なぜ?」
「明後日《あさって》でなければこないつもりでね。」
「まあ、なぜ?」
「あとでわかるよ。」
「一日あなたに会わずに! いえそんなことできないわ。」
「あるいは一生のためになることだから、一日くらい耐《こら》えていよう。」
 そしてマリユスは、半ば口の中でひとり言った。
「少しも習慣を変えない人だし、晩にしかだれにも会ったことのない人だから。」
「だれのことを言ってるの。」とコゼットは尋ねた。
「私が? 何も言いはしない。」
「では何を望んでるの。」
「明後日《あさって》のことにしよう。」
「どうしても?」
「ええ、コゼット。」
 彼女は彼の頭を両手に抱き、同じ高さになるために爪先《つまさき》で伸び上がって、彼の目の中にその望みを読み取ろうとした。
 マリユスは言った。
「今思い出したが、あなたは私の住所を知ってなけりゃいけない。何か起こらないとも限らないから。私はクールフェーラックという友人の所に住んでるんだよ。ヴェールリー街十六番地。」
 彼はポケットの中を探って、ナイフを取り出し、その刃で壁の漆喰《しっくい》の上に彫りつけた。
 ヴェールリー街十六[#「ヴェールリー街十六」に傍点]。
 そのうちにコゼットは、また彼の目の中をのぞきはじめた。
「あなたの考えを言ってちょうだいよ。マリユス、あなたは何か考えてるんだわ。それを私に言ってちょうだい。ねえ、それを聞かして私にうれしい一夜を過ごさして下さらない?」
「私が考えてるのはこうだよ、神様も私たちを引き離そうとはされないに違いないと。明後日私を待ってるんだよ。」
「それまで私はどうしようかしら。」とコゼットは言った。「あなたは外に出て、方々行ったりきたりするんでしょう。男っていいものね。私は一人でじっとしてなけりゃならないもの。ああどんなに悲しいでしょう。明日《あす》の晩何をするつもりなの、言ってちょうだいな。」
「一つやってみることがあるんだよ。」
「では私は、あなたが成功するように、それまで、神様にお祈りをし、あなたのことを思っていましょう。もう尋ねないわ、あなたが言いたくないのなら。あなたは私の主人ですもの。私あなたの好きな、それいつかの晩あなたが雨戸の外に聞きにいらした、あのウーリヤント[#「ウーリヤント」に傍点]の曲を歌って、明日の晩は過ごすことにするわ。でも明後日《あさって》は早くからきてちょうだい。日が暮れると待ってるわ。ちょうど九時にね、よくって、ああ、ほんとにいやね、日が長いのは。ねえ、九時が打つと私は庭に出てるわ。」
「その時には私も来る。」
 そして言わず語らずに、ふたりとも同じ考えに動かされ、ふたりの恋人の心を絶えず通わせる電気の流れに引かされ、悲しみの中にあっても恍惚《こうこつ》として、彼らは互いに抱き合い、知らぬまに脣《くちびる》を合わし、喜びにあふれて涙に満ちてる目を上げては、空の星をながめた。
 マリユスが外に出た時、街路には人影もなかった。それはちょうど、エポニーヌが盗賊らの跡をつけて大通りまで行った時だった。
 木に頭をもたして思い沈んでいる時、マリユスの頭に一つの考えが浮かんだのだった。それも実は彼自身にさえ愚かな不可能なことだと思えるものであった。しかし彼は激しい決心を固めたのである。

     七 老いたる心と若き心との対峙《たいじ》

 ジルノルマン老人は当時、はや九十一歳になっていた。そしてやはりジルノルマン嬢とともに、フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地の自分の古い家に住んでいた。読者の記憶するとおり彼は、まっすぐに立ちながら死を待ち、老年になっても腰も曲がらず、悲しみがあっても背もかがまないという、あの古代式な老人のひとりであった。
 けれども最近になって、「お父さんも弱ってこられた、」と彼の娘は言っていた。彼はもう女中を平手でなぐることもしなくなった。外から帰ってきて、バスクが扉《とびら》を開くのをおくらすような時、階段の平板を非常な元気で杖《つえ》でたたくこともしなくなった。七月革命も彼をようやく六カ月間奮激さしたのみだった。モニトゥール[#「モニトゥール」に傍点]新聞に「フランス上院議員ウンブロ・コンテ氏」などと書かれているのを見ても、ほとんど平気でいることができた。実際彼はまったく気力を失ってしまったのである。彼は一歩も譲らず屈しもしないという点では精神的方面でも肉体的方面でも同じであったが、しかし内心ではしだいに弱ってきたことを自ら感じていた。四年の間彼は、まったくのところしっかと足を踏みしめてマリユスを待っていた。あのばか者がいつ帰ってきて戸をたたくかも知れないと確信して待っていた。が今では気が滅入《めい》るような時には、「まだなかなかマリユスが帰ってこないとすれば……」などと自ら言うようになった。彼にたえ難かったのは、自分の死ということではなく、もう再びマリユスに会えないかも知れないという考えだった。もう再びマリユスに会えないという考えは、その時まで彼の頭には少しも浮かばなかったことである。ところが今では、そういう考えが彼に浮かび始めて、彼を慄然《りつぜん》と
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