轤ネいものであるという証拠である。
マリユスにとっては、コゼットが化粧品の話をするのに耳を傾けること。
コゼットにとっては、マリユスが政治を語るのに耳を傾けること。
膝《ひざ》と膝とを接してすわりながら、バビローヌ街を行く馬車の音を聞くこと。
大空のうちに同じ星をながめ、または草の中に同じ螢《ほたる》をながめること。
いっしょに黙っていること。これは語るよりも更に楽しいことである。
その他種々。
そのうちに種々複雑なことが到来してきた。
ある晩、マリユスは会合の場所に行くためにアンヴァリード大通りを通っていた。彼はいつも首垂《うなだ》れて歩くのが癖であった。彼がプリューメ街の角《かど》を曲がろうとした時、すぐそばに声がした。
「今晩は、マリユスさん。」
頭を上げると、それはエポニーヌであった。
その遭遇は彼に妙な気持ちを与えた。その娘からプリューメ街に連れてこられた日以来、彼は一度も彼女のことを考えたことがなく、姿を見たこともなく、まったく頭の外に追い出してしまっていた。彼女に対して彼はただ感謝のほかはなく、現在の幸福は彼女に負うところのものであった。けれども彼は、今彼女に会って多少の困惑を感じた。
情熱は幸福で純潔である時人を完全な状態に導く、と思うのは誤りである。前に述べたとおり、それは単に人を忘却の状態に導くのみである。そういう境地にある時人は、悪くなることを忘るるがまた善《よ》くなることをも忘るる。感謝や義務など根本の大事な記憶さえ皆消え失せてしまう。別の時であったら、エポニーヌに対するマリユスの態度も違っていたであろう。しかし今コゼットのことで心がいっぱいになっていた彼は、このエポニーヌはエポニーヌ・テナルディエという名前であることをもはっきり頭に浮かべなかった。そのテナルディエという名前こそ、父の遺言のうちに書かれていたものであり、数カ月以前であったらそれに対して身をささげることをも辞しなかったであろう。われわれはマリユスのありのままを描いているのである。今や父の姿さえも彼の心のうちでは愛の輝きの下に多少薄らいでいた。
彼は少し当惑したように答えた。
「ああ、あなたですか、エポニーヌ。」
「なぜあなたなんていうの。あたし何か悪いことでもして?」
「いいえ。」と彼は答えた。
確かに彼は何も彼女に含むところはなかった。そんなことはまったくなかった。ただ、コゼットと親しい調子になってる今では、エポニーヌに対してよそよそしい調子を取らざるを得ないような気がしたまでである。
彼が黙っているので、彼女は叫んだ。
「何なの……。」
そして彼女は言葉を切った。以前はあれほどむとんちゃくで厚かましかった彼女も、今は口をききかねてるらしかった。彼女はほほえもうとしたが、それもできなかった。彼女はまた言った。
「なーに?……。」
そう言いかけて彼女はまた口をつぐみ、目を伏せてしまった。
「さようなら、マリユスさん。」とだしぬけに彼女は言って、向こうに立ち去ってしまった。
四 隠語を解する番犬
その翌日の六月三日、重大なる事変が電気を含んだ暗雲の状態になってパリーの地平線にかかっていたために記憶すべき一八三二年の六月三日、マリユスは夜になる頃、心にいつもの楽しい考えをいだいて、前日と同じ道をたどっていた。その時彼は、大通りの並み木の間に、こちらへやって来るエポニーヌの姿を認めた。二日続くとはあまりのことであった。彼は急いで横にはずれ、大通りを去り、道筋を変えて、ムッシュー街からプリューメ街へ行った。
そのためにかえってエポニーヌはいつになく、彼の跡をつけてプリューメ街までついてきた。これまで彼女は大通りでマリユスが通るのを見かけるだけで満足し、彼の前に出ようともしなかった。ただ前日始めて、彼女はあえて彼に言葉をかけたのだった。
エポニーヌはマリユスに気づかれないように跡をつけていった。彼女は彼が鉄門の棒を動かして庭にはいり込むのを見た。
「おや、」と彼女は言った、「家の中にはいって行った!」
彼女は鉄門に近寄り、一つ一つその鉄棒にさわってみて、マリユスが動かした棒をすぐに見つけた。
彼女は陰気な調子で低くつぶやいた。
「いけない!」
彼女はその鉄棒の横の台石の上に、番でもするように腰をおろした。それはちょうど鉄門が横の壁と接してる所だった。暗いすみになっていて、エポニーヌの姿はすっかり隠れてしまった。
彼女はそのまま一時間以上も、身動きもせず息を潜めて、思案にくれていた。
夜の十時ごろ、プリューメ街を通った二、三の通行人のうち、帰りおくれたひとりの老人が、その恐ろしい評判のある寂しい場所にさしかかって、足を早めながら庭の鉄門に沿い、銑門と壁とが接してるすみの所まで来ると、気味悪い低い一つの声を聞いた。
「あの人が毎晩きたって別に不思議はない。」
通行人はあたりを見回したが、人の姿は見えないし、またその暗いすみをのぞく勇気はなく、ただ非常な恐怖に襲われた。そして足を早めた。
この通行人が足を早めたのはいいことだった。それから間もなく、六人の男が、別々に少し間をおいて、壁に沿って進んでき、密行の巡邏《じゅんら》のようなふうで、プリューメ街にはいってきた。
庭の鉄門の所までやってきた第一の男は、そこに足を止めて他の者を待った。それからすぐに六人ともいっしょになった。
彼らは低い声で隠語を話し始めた。([#ここから割り注]訳者注 以下彼らの言葉は隠語を交じえたるものと想像していただきたい[#ここで割り注終わり])
「ここだ。」とひとりは言った。
「庭に犬がいるか。」ともひとりが尋ねた。
「知らねえ。だがとにかく食わせる団子は持ってきた。」
「窓を破るパテはあるか。」([#ここから割り注]窓ガラスにパテをつけて、ガラスの破片が落ちて音を立てるのを防ぐのだ[#ここで割り注終わり])
「ある。」
「鉄門は古いぜ。」と五番目の腹声の男が言った。
「そいつは結構だ。」と既に一度口をきいた第二の男は言った。「切るに音もせず骨も折れねえ。」
それまで黙っていた六番目の男は、一時間前にエポニーヌがしたように、鉄門を調べはじめ、鉄棒を一本一本つかんで、気をつけてそれを揺すってみた。そしてついにマリユスが動かした棒の所まできた。男はそれをつかもうとした。その時突然影の中から一本の手が出て、男の腕を払いのけた。それから男は激しく胸のまんなかを押し戻され、低いつぶれた声を聞いた。
「犬がいるよ。」
同時に男は、色の青いひとりの娘が自分の前に立ってるのを見た。
男は意外事から受ける一種の動乱を感じた。彼は恐ろしく身の毛を逆立てた。およそ不安を感じてる猛獣ほど見るに恐ろしいものはない。おびえてる猛獣の様子はまた人を脅かすものである。男は後ろに退《しざ》ってつぶやいた。
「なんだ、この女《あま》は?」
「お前の娘だよ。」
実際それは、エポニーヌがテナルディエに口をきいているのだった。
エポニーヌが出てきたのを見て、他の五人の男は、すなわちクラクズーとグールメルとバベとモンパルナスとブリュジョンとは、音もさせず、急ぎもせず、口もきかず、闇夜《やみよ》の男に特有な気味悪いのっそりとしたふうで、寄り集まってきた。
何か怪しい道具を皆手に持っていた。グールメルは浮浪人らが頬かぶり[#「頬かぶり」に傍点]と呼ぶ一種の曲がった梃《てこ》を持っていた。
「何だってそんな所にいるんだ。俺《おれ》たちをどうしようってえんだ。気でも違ったのか。」とテナルディエはおよそ低い声でどなり得る限りどなった。「何で仕事の邪魔をしやがるんだ。」
エポニーヌは笑い出して、彼の首に飛びついた。
「お父さん、あたしはただここにいるからいるだけよ。この節じゃ石に腰掛けてもいけないことになったの? お父さんこそここに来るわけはないじゃないか。ビスケットなのに何しにきたのよ。マニョンにそう言っといたのに。ここはとてもだめ。だがあたしをまあ抱いておくれよ、お父さん! もうだいぶ会わなかったわね。とうとう出てきたのね。」
テナルディエはエポニーヌの腕を放そうとして、そしてつぶやいた。
「よしよし。俺《おれ》を抱いてくれたな。そうだ、俺は出てきたんだ。もう牢《ろう》にはいねえ。さあもう行くがいい。」
しかしエポニーヌは手を放さないで、ますます彼に甘え出した。
「お父さん、いったいどういうふうにしたのよ。ぬけ出して来るなんて、よほどうまくやったのね。話しておくれよ。そしてお母さんは? 今どこにいるの。お母さんのことも聞かしておくれよ。」
テナルディエは答えた。
「お母さんは達者だ。よくは知らねえ。まあ放せよ。退《ど》いてくれったら。」
「あたしここを離れやしない。」とエポニーヌはだだっ児が甘えるように言った。「四月《よつき》も会わないのに、やっと抱きついたばかりで、もうあたしを追いやろうっていうの。」
そして彼女はまた父の首にかじりついた。
「おいおい、何をばかなことをしてるんだ!」とバベは言った。
「早くしろい。」とグールメルは言った。「でか[#「でか」に傍点]が来るかも知れねえ。」
腹声の男は次の諷句《ふうく》を口ずさんだ。
[#ここから4字下げ]
お正月ではあるめえし、
父ちゃん母ちゃんた何事だ。
[#ここで字下げ終わり]
エポニーヌは五人の盗賊の方へ振り向いた。
「あらブリュジョンさん。……こんにちはバベさん。こんにちはクラクズーさん。……あたしがわかって、グールメルさん。……いかが、モンパルナス。」
「お前だと皆わかってるよ。」とテナルディエは言った。
「だが挨拶《あいさつ》もたいていにしろよ。俺《おれ》たちの邪魔をするな。」
「狐《きつね》が出る時分だ、雛鶏《ひよっこ》の出る幕じゃねえ。」とモンパルナスは言った。
「見るとおり俺たちはここで用があるんだ。」とバベは言い添えた。
エポニーヌはモンパルナスの手を取った。
「気をつけろよ、」と彼は言った、「けがをするぞ。どす[#「どす」に傍点]を持ってるんだ。」
「まあモンパルナス、」とエポニーヌはごく静かに答えた、「仲間の者はお互いに信用するものよ。あたしはお父さんとかの娘よ。バベさん、グールメルさん、この仕事を調べるように言いつかったのはあたしよ。」
注意すべきことには、エポニーヌは隠語を使っていなかった。マリユスを知って以来、彼女はその恐ろしい言葉を口にすることができなくなっていたのである。
彼女は、骸骨《がいこつ》の手のような骨立った弱々しい小さな手で、グールメルの荒々しい太い指を握りしめて、言い続けた。
「皆《みんな》も知ってるとおりあたしばかじゃないわ。いつもあたしを信じてくれるじゃないの。何度も用をしてやってるわ。ここもいろいろ調べてみると、骨折っても全くむだなことがわかったのよ。この家にはいったってどうにもならないことは、確かだわ。」
「女ばかりじゃねえか。」とグールメルは言った。
「いえ、皆引っ越したのよ。」
「でも蝋燭《ろうそく》は引っ越さねえと見えるな。」とバベは言った。
そして彼は、母家《おもや》の屋根裏に動いてる光を、木立ち越しにエポニーヌにさしてみせた。それは洗濯物《せんだくもの》をひろげるためにトゥーサンがともしてる灯火であった。
エポニーヌは最後の努力を試みた。
「でもね、」と彼女は言った、「ごく貧乏な人たちよ。一スーのお金もないきたない家だよ。」
「ぐずぐず言うな!」とテナルディエは叫んだ。「家を引っくり返して、窖《あなぐら》と屋根裏とをあべこべにして、中に何があるかお前に教えてやらあ、フランだかスーだか厘《りん》だか。」
そして彼は前に出ようとして彼女を押しのけた。
「ねえモンパルナスさん、」とエポニーヌは言った、「お前さんはいい人だわね、どうかはいらないでおくれよ。」
「気をつけろったら、けがをするぞ。」とモンパルナスは答え返した。
テナルディエは例のきっぱりした調子で言った。
「どけ、女《あま》っちょが
前へ
次へ
全73ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング