いい女だった。服装も整えていた。彼女はすっかりフランスふうになりきってるある利口な手癖の悪いイギリスの女と、同じ家に住んでいたが、その室《へや》は気取った卑しい飾りつけがしてあった。このパリーふうになりすましたイギリスの女は、富豪らとの関係を保ち、図書館のメダルやマルス嬢の金剛石などと親しい交渉を持っていて、後に罰金帳簿の上に名を著わした者である。普通にミス嬢と呼ばれていた。
 マニョンの手に落ちたふたりの子供は、不平を言うどころではなかった。八十フランついてるので、すべて金になるものが大事にされるとおり、ごく大切にされていた。着物も食物もいいものをあてがわれ、ほとんど「小紳士」のような待遇を受けて、実の母親のもとにいるよりも養母のもとにいる方が仕合わせだった。マニョンはりっぱな夫人らしい様子を作って、彼らの前では変な言葉は少しも使わなかった。
 かくて幾年か過ぎた。テナルディエは幸先《さいさき》がいいと思っていた。ある日マニョンがその月分の十フランを持ってきた時、彼はふとこんなことを言った、「そろそろ父親[#「父親」に傍点]から教育もしてもらわなくちゃならん。」
 ところが突然、そのふたりのあわれな子供は、その悪い運命のゆえからでもとにかくそれまでは無事に育てられていたが、急に世の中に投げ出されて、自分で生活を始めなければならなくなった。
 あのジョンドレットの巣窟《そうくつ》でなされたように多数の悪漢が一度に捕縛さるる場合には、必ずそれに引き続いて多くの捜索と監禁とが起こってくるもので、公の社会の下に住んでる隠密《おんみつ》な嫌悪《けんお》すべき反社会の一団に対して大災害をきたすものである。その種の事件はこの陰惨な世界にあらゆる転覆を導き込むものである。テナルディエ一家の破滅はやがてマニョンの破滅ともなった。
 ある日、マニョンがプリューメ街に関する手紙をエポニーヌに渡した少し後のことだったが、突然クロシュペルス街に警察の手が下された。マニョンはミス嬢とともに捕えられ、怪しいと見られたその家全部の者が皆一網にされてしまった。そういうことの行なわれてる間、ふたりの小さな男の児は裏の中庭で遊んでいて、その捕縛を少しも知らなかった。彼らが家にはいろうとすると、戸は閉ざされ家は空《から》になっていた。ふたりは向こう側の店の靴職人《くつしょくにん》のひとりに呼ばれて、「母親」が彼らのために書き残していった紙片を渡された。紙片の上にはあて名がついていた、ロア・ド・シシル街八番地執事バルジュ殿。店の男はふたりに言った。「お前たちはもうここにはいられねえ。その番地の所へ行きな。すぐ近くだ。左手のすぐの街路《まち》だ。この書き付けを持って道をきくがいい。」
 ふたりの子供は出かけていった。兄は弟の方を連れながら、ふたりを導くべき紙片を手にしていた。寒い日で、彼の痺《しび》れた小さな指には力がなく、その紙片をしっかと握っていることができなかった。クロシュペルス街の曲がり角《かど》の所で、一陣の風が彼の手から紙片を吹き飛ばしてしまった。もう夜になりかかった頃で、子供はそれをさがし出すことができなかった。
 ふたりはあてもなく往来をさまよい始めた。

     二 少年ガヴローシュ大ナポレオンを利用す

 パリーの春には、しばしば鋭いきびしい北風が吹いて、ただに凍えるばかりでなく、実際身体まで氷結してしまうほどである。最も麗しい春の日をそこなうそれらの北風は、ちょうど建て付けの悪い窓や戸のすき間から暖い室《へや》の中に吹き込んでくる冷たいすき間風のようなものである。あたかも冬の薄暗い扉《とびら》が半ば開いたままになっていて、そこから風が吹いて来るかとも思われる。一八三二年の春は、十九世紀最初の大疫病がヨーロッパに発生した時だったが、この北風が例年にも増して荒く鋭かった。冬の扉よりももっと冷たい氷の扉が口を開いていた。墳墓の扉だった。その北風の中にはコレラの息吹《いぶき》が感ぜられた。
 気象学上から言えば、この寒風の特質は高圧の電気を少しもはばまないことだった。電光と雷鳴とを伴った驟雨《しゅうう》がその頃しばしば起こった。
 ある晩、この北風が激しく吹いて、正月がまた戻ってきたかと思われ、市民はまたマントを引っ掛けていた時、少年ガヴローシュは相変わらずぼろの下にふるえながら暢気《のんき》で、オルム・サン・ジェルヴェーの付近にある、ある理髪屋の店先に立って、我を忘れてるがようだった。どこから拾ってきたかわからないが、毛織りの女の肩掛けをして、それに顔を半分埋めていた。ちょうど蝋細工《ろうざいく》の新婦の人形があって、首筋をあらわにし橙《オレンジ》の花を頭につけ、窓ガラスの中で二つのランプの間にぐるぐる回りながら、通行人に笑顔《えがお》を見せていた。少年ガヴローシュはそれに深く見とれてるようなふうをしていた。しかし実際は、店の中をうかがっているのであって、店先にある石鹸《せっけん》の一片でも「ごまかし」て、場末の「床屋」に一スーばかりにでも買ってもらおう、というくらいのつもりだった。彼は何度もそういう一片で朝飯にありついたことがあった。彼はそういう仕事に得意で、そのことを「床屋の髯《ひげ》をそる」と称していた。
 人形を見、また一片の石鹸を偸見《ぬすみみ》しながら、彼は口の中でこうつぶやいた。「火曜日。――火曜日じゃない。――火曜日かな。――火曜日かも知れん。――そうだ、火曜日だ。」
 その独語は何のことだか人にはわからなかった。
 あるいはもしかすると、その独語は三日前に得たこの前の食事に関することだったかも知れない。なぜならちょうどその日は金曜だったから。
 理髪師は盛んな火のはいってるストーブで暖められた店の中で、客の顔をそりながら、時々じろりと敵の方へ目をやっていた。敵というのはその凍えた厚かましい浮浪少年で、彼は両手をポケットにつっ込んではいたが、その精神は明らかに鞘《さや》を払って一仕事しようとしていた。
 ガヴローシュが人形や窓ガラスやウィンゾール石鹸などをのぞいてる間に、彼より小さなかなりの服装をしたふたりの子供が、それも背たけが異なってひとりは七歳くらいでひとりは五歳くらいだったが、おずおずと戸のとっ手を回して、店にはいってゆき、おそらく慈悲か何かを願いながら、懇願というよりもむしろうめきに似た声でぶつぶつつぶやいた。ふたりは同時に口をきいたが、年下の方の声は嗚咽《おえつ》に妨げられ、年上の方の声は寒さに震える歯の音に妨げられて、言葉は聞き取れなかった。理髪師は恐ろしい顔をしてふり向き、剃刀《かみそり》を手にしたまま、左手で年上の方を押し返し、膝頭《ひざがしら》で年下の方を押しのけ、ふたりを往来につき出して、戸をしめながら言った。
「つまらないことにはいってきやがって、室《へや》が冷えっちまうじゃないか」
 ふたりの子供は泣きながらまた歩き出した。そのうちに雲が空を通って、雨が降り始めた。
 少年ガヴローシュはふたりのあとに駆けていって、それに追いついた。
「おい、お前たちはどうしたんだい。」
「寝る所がないんだもの。」と年上の方が答えた。
「そんなことか。」とガヴローシュは言った。「なんだつまらねえ。それぐらいのことに泣いてるのか。カナリヤみたいだな。」
 そして年長者らしい嘲弄《ちょうろう》半分の気持から、少しかわいそうに見下すようなまたやさしくいたわるような調子で言った。
「まあ俺《おれ》といっしょにこいよ。」
「ええ。」と年上の方が言った。
 そしてふたりの子供は、大司教のあとにでもついてゆくようにして彼のあとに従った。もう泣くのをやめていた。
 ガヴローシュは彼らを連れて、サン・タントアーヌ街をバスティーユの方へ進んでいった。
 彼は歩きながら、ふり返って理髪屋の店をじろりとにらんだ。
「不人情な奴《やつ》だ、あの床屋め。」と彼はつぶやいた。「ひどい野郎だ。」
 ガヴローシュを先頭に三人が一列になって歩くのを見て、ひとりの女が大声に笑い出した。三人に敬意を欠いた笑い方だった。
「こんちは、共同便所お嬢さん。」とガヴローシュはその女に言った。
 それからすぐにまた、理髪師のことが頭に浮かんできて、彼はつけ加えた。
「俺《おれ》は畜生を見違えちゃった。あいつは床屋じゃねえ、蛇《へび》だ。ようし、錠前屋を呼んできて、今にしっぽに鈴をつけさしてやらあ。」
 理髪師は彼の気をいら立たしていた。ブロッケン山([#ここから割り注]訳者注 ワルプルギスの魔女らの会合地と思われていた所[#ここで割り注終わり])でファウストに現われて来るにもふさわしいようなある髯《ひげ》のある門番の女が、手に箒《ほうき》を持って立っていると、彼は溝《どぶ》をまたぎながら呼びかけた。
「お前さんは馬に乗って出て来るといいや。」
 その時、彼は一通行人のみがき立ての靴《くつ》に泥をはねかけた。
「ばか野郎!」と通行人はどなった。
 ガヴローシュは肩掛けの上に顔を出した。
「苦情ですか。」
「貴様にだ!」と通行人は言った。
「役所はひけましたよ、」とガヴローシュは言った、「もう訴えは受け付けません。」
 その街路をなお進みながらやがて彼は、十三、四歳の乞食娘《こじきむすめ》が、膝《ひざ》まで見えるような短い着物を着て、ある門の下に凍えて立ってるのを見た。小さな娘は着のみ着のままであまり大きくなり始めてるのだった。生長はそういう悪戯《いたずら》をすることがある。裸体がふしだらとなる頃には、衣裳《いしょう》は短かすぎるようになる。
「かわいそうだな!」とガヴローシュは言った。「裾着《すそぎ》もないんだな。さあ、これでもまあ着るがいい。」
 そして首に巻いていた暖かい毛織りの肩掛けをはずし、それを乞食娘《こじきむすめ》のやせた紫色の肩の上に投げてやった。それで首巻きはまた再び肩掛けに戻ったわけである。
 娘はびっくりしたようなふうで彼をながめ、黙ったまま肩掛けを受け取った。ある程度までの困苦に達すると、人は呆然《ぼうぜん》としてしまって、もはや虐待を訴えもしなければ、親切を謝しもしなくなるものである。
 それからガヴローシュは「ぶるる!」と脣《くちびる》でうなって、聖マルティヌス([#ここから割り注]訳者注 中古の聖者[#ここで割り注終わり])よりもいっそうひどく震え上がった。聖マルティヌスは少なくとも、自分のマントの半分は残して身につけていたのである。
 その「ぶるる!」という震え声に、驟雨は一段ときげんを損じて激しくなってきた。この悪者の空はかえって善行を罰する。
「ああ何てことだ。」とガヴローシュは叫んだ。「またひどく降り出してきたな。このまま降り続こうもんなら、もう神様なんてものも御免だ。」
 そして彼はまた歩き出した。
「なあにいいや。」と彼は言いながら、肩掛けの下に身を縮めてる乞食娘の方に一瞥《いちべつ》をなげた。「あすこにだってすてきな着物を着てる女が一匹いらあ。」
 そしてこんどは雲をながめて叫んだ。
「やられた!」
 ふたりの子供は彼のあとに並んで歩いていた。
 人は通常パンを黄金のように鉄格子の中に置くものであって、密な鉄格子はパン屋の店を示すものであるが、彼らがそういう一つの窓の前を通りかかった時、ガヴローシュは後ろをふり向いた。
「おい、みんな飯を食ったか。」
「朝から何にも食べません。」と年上の子供が答えた。
「じゃあ親父《おやじ》も親母《おふくろ》もないのか。」とガヴローシュはおごそかに言った。
「いいえ、どっちもありますが、どこにいるかわからないんです。」
「それはわかってるよりわからない方がいいこともある。」と思想家であるガヴローシュは言った。
「もう二時間も歩き回ってるんです。」と年上の方は言い続けた。「町角《まちかど》でさがし物をしてたけれど、わからないんです。」
「あたりまえさ、犬がみんな食ってしまうんだ。」とガヴローシュは言った。
 そしてちょっと口をつぐんだ後、彼はまた言った。
「ああ俺たちは産んでくれた者を失
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