れてゆく昼の明るみと消えてゆく魂の思いとで照らされていた。
 それはまだ幽霊ではないがもう既に人間ではないように思われた。
 その帽子は藪《やぶ》の中に数歩の所に投げ捨ててあった。
 コゼットは気を失いかけたが、声は立てなかった。そして引きつけられるような気がして、静かに後ろにさがった。彼の方は身動きもしなかった。彼を包んでるある悲しい名状し難いものによって、彼女ははっきりとは見えない彼の目つきを感じた。
 コゼットは後ろにさがりながら、一本の木に行き当たって、それによりかかった。その木がなかったら危うく倒れるところだった。
 その時彼女は彼の声を聞いた。実際彼女がまだ一度も直接に聞いたことのないその声であって、ようやく木の葉のそよぎから聞き分け得るくらいのささやくような低い声だった。
「許して下さい、私はここにきました。私は心がいっぱいになって、今までのようでは生きてゆけなくなりましたから、やってきました。あなたは私がこの腰掛けの上に置いたものを読んで下さいましたか。あなたは私をいくらか覚えておいでになりますか。私を恐《こわ》がらないで下さい。もうだいぶ前のことですが、あなたが私の方をごらんなすったあの日のことを、覚えておられますか。リュクサンブールの園で、角闘士《グラディアトール》の立像のそばのことでした。それからまた、あなたが私の前を通られたあの日のことも? それは六月の十六日と七月の二日とでした。もうやがて一年になります。それ以来長い間、私はもうあなたに会うことができませんでした。私はあすこの椅子番《いすばん》の女にも尋ねましたが、もうあなたを見かけないと言いました。あなたはウエスト街の新しい家の表に向いた四階に住んでおられました。よく知っていましょう。私はあなたの跡をつけたのです。ほかに仕方もなかったのです。それからあなたはどこかへ行かれてしまいました。一度オデオンの拱廊《きょうろう》の下で新聞を読んでいました時、あなたが通られるのを見たように思いました。私は駆けてゆきました。しかしそれは違っていました。ただあなたと同じような帽子をかぶったほかの人でした。それから、夜になると私はここへやってきます。心配しないで下さい、だれも私を見た者はありませんから。私はあなたの窓を近くからながめたいと思ってやって来るのです。あなたを驚かしては悪いと思って、足音が聞こえないようにごく静かに歩くことにしています。先夜はあなたの後ろに私は立っていました。そしてあなたがふり向かれたので、逃げ出してしまいました。一度はあなたが歌われるのを聞きました。ほんとにうれしく思いました。あなたが歌われるのを雨戸越しに聞くことが、何か邪魔になりますでしょうか。別にお邪魔になりはしませんでしょう。いいえ、そんなはずはありません。まったくあなたは私の天使《エンゼル》です。どうか時々私にこさして下さい。私はもう死ぬような気がします。ああ私がどんなにあなたをお慕いしているか、それを知ってさえいただけたら! どうか許して下さい。あなたにお話してはいますが、何を言ってるか自分でも分りません。あるいはお気にさわったかも知れません。何かお気にさわったでしょうか?」
「おおお母様!」と彼女は言った。
 そして今にも死なんとするかのように身をささえかねた。
 彼は彼女をとらえた。彼女は倒れかかった。彼はそれを腕に抱き取った。彼は何をしてるか自ら知らないで彼女をひしと抱きしめた。自らよろめきながら彼女をささえた。頭には煙がいっぱい満ちたかのようだった。閃光《せんこう》が睫毛《まつげ》の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔な行ないをしてるようにも思われ、ある冒涜《ぼうとく》なことを犯してるようにも思われた。その上彼は、自分の胸に感ずるその麗わしい婦人の身体に対して、少しの情欲をもいだいていなかった。彼はただ愛に我を忘れていた。
 彼女は彼の手を取り、それを自分の胸に押しあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながら言った。
「では私を愛して下さいますか。」
 彼女はわずかに聞き取れる息のような低い声で答えた。
「そんなことを! 御存じなのに!」
 そして彼女はそのまっかな頬《ほお》を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。
 彼は腰掛けの上に身を落とした。彼女はそのそばにすわった。彼らはもはや言うべき言葉もなかった。空の星は輝き出した。いかにしてか、二人の脣《くちびる》は合わさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、薔薇《ばら》の花は開き、五月は輝きいで、黒い木立ちのかなたうち震う丘の頂には曙《あけぼの》の色が白んでくる。
 一つの脣《くち》づけ、そしてそれはすべてであった。
 ふたりとも身をおののかした、そして暗闇《くらやみ》の中で互いに輝く目と目を見合った。
 彼らはもはや、冷ややかな夜も、冷たい石も、湿った土も、ぬれた草も、感じなかった。彼らは互いに見かわし、心は思いに満たされた。われ知らず互いに手を取り合っていた。彼女は彼に何も尋ねなかった。どこから彼がはいってきたか、どうして庭の中に忍びこんできたか、それを彼女は思ってもみなかった。彼がそこにいたのはきわめて当然なことのように思われたのだった。
 時々、マリユスの膝《ひざ》はコゼットの膝に触れた。そしてふたりは身をおののかした。
 長く間をおいては、コゼットは一、二言口ごもった。露の玉が花の上に震えるように、彼女の魂はその脣の上に震えていた。
 しだいに彼らは言葉をかわすようになった。満ち足りた沈黙に次いで溢出《いっしゅつ》がやってきた。夜は彼らの上に朗らかに輝き渡っていた。精霊のごとく潔《きよ》らかなふたりは、互いにすべてを語り合った、その夢想、その心酔、その歓喜、その空想、その銷沈《しょうちん》、遠くからいかに慕い合っていたかということ、いかに憧《あこが》れ合っていたかということ、互いに会えなくなった時、いかに絶望に陥ったかということ。彼らは既にもうこの上進むを得ない極度の親密さのうちに、最も深い最も秘密なものまでも互いに打ち明け合った。幻のうちに率直な信念をいだいて、愛や青春やまだ残っている子供心などが、彼らの頭のうちにもたらすすべてのものを、互いに語り合った。二つの心は互いにとけ合って、一時間とたつうちに、青年は若い娘の魂を得、若い娘は青年の魂を得た。彼らは互いに心の底の底にはいり込み、互いに魅せられ、互いに眩惑《げんわく》した。
 すべてすんだ時、すべてを語り合った時、彼女は彼の肩に頭をもたして、そして尋ねた。
「あなたのお名は?」
「マリユスです。」と彼は言った。「そしてあなたは?」
「コゼットといいますの。」
[#改ページ]

   第六編 少年ガヴローシュ

     一 風の悪戯《いたずら》

 一八二三年以来、モンフェルメイュの宿屋はしだいに非運に傾いて、破産の淵《ふち》へというほどではないが、多くの小さな負債の泥水《どろみず》の中に沈んでいった。その頃テナルディエ夫婦の間には別にふたりの子供ができていた。ふたりとも男だった。それでつまり五人の子供になるわけで、ふたりは女の児で三人は男の子だった。そして五人とは少し多すぎた。
 テナルディエの女房は、末のふたりの児を、まだ年もゆかぬごく小さな時分に、妙な好機会で厄介払《やっかいばら》いをしてしまった。
 厄介払いとはそれにちょうど適当な言葉である。この女のうちにははんぱな天性しかなかった。そういう現象の実例はいくらもある。ラ・モート・ウーダンクール元帥夫人のように、テナルディエの女房はただその女の児に対してだけ母親だった。彼女の母性はそこ限りだった。人類に対する彼女の憎悪《ぞうお》は、まず自分の男の児から始まっていた。男の児に対する悪意はすこぶる峻烈《しゅんれつ》で、彼女の心はそこに恐ろしい断崖《だんがい》を作っていた。読者が前に見たとおり、彼女は既に長男を憎んでいたが、他のふたりをもまたのろっていた。なぜかと言えば、ただきらいだからだった。最も恐るべき動機であり、最もどうにもできない理由だった、すなわちただきらいだから。「ぎゃあぎゃあ泣き立てる子供の厄介物《やっかいもの》なんかはごめんだ、」とこの母親は言っていた。
 テナルディエ夫婦が、末のふたりの児をどうして厄介払いしたか、しかもどうしてそれから利益まで得たか、それをちょっと説明しておこう。
 前に一度出てきたあのマニョンという女は、自分のふたりの子供を種にうまくジルノルマン老人から金を引き出していたあのマニョンと同一人だった。彼女はセレスタン河岸の古いプティー・ムュスク街の角《かど》に住んでいて、その場所がらのために悪い評判をうまくごまかしていた。人の知るとおり、今から三十五年前に、クルプ性|喉頭炎《こうとうえん》が非常に流行して、パリーのセーヌ川付近を荒したことがあった。明礬《みょうばん》吸入の効果が大規模に実験されたのもその時のことであって、今日ではそれに代えて、有効なヨードチンキが外用されるようになったのである。ところでその流行病のおりに、マニョンは同じ日の朝と晩に、まだごく幼いふたりの男の児を亡《な》くした。それは少なからぬ打撃だった。ふたりの子供はその母親にとっては大事なもので、毎月八十フランになるものだった。その八十フランは、ジルノルマン氏の名前で、ロア・ド・シシル街にいる退職執達吏で彼の執事をしてるバルジュ氏から、いつも正確に払われていた。しかるに子供がふたりとも死んだので、その収入も消えたわけだった。でマニョンは工夫を凝らした。ちょうど彼女が関係していた暗やみの悪人どもの間では、あらゆることがわかっていて、互いに秘密を守り合い、互いに助力し合っていた。マニョンにふたりの子供が必要だったが、テナルディエの上さんにふたりの子供があった。同じく男の児で、年齢も同じだった。一方では好都合であり、一方では厄介払いだった。そこでテナルディエのふたりの児はマニョンの児となった。マニョンはセレスタン河岸を去って、クロシュペルス街に移り住んだ。パリーでは住んでる町を変えさえすれば、まったく別人のようにわからなくなる。
 戸籍係りの方には何にもわからないで、少しの抗議もなく、替玉《かえだま》はきわめて容易に行なわれた。ただテナルディエは子供を貸し与えたについて月に十フランを請求したが、マニョンもそれは承知して、実際毎月支払った。ジルノルマン氏がなお続けて仕送りをしたことは無論である。彼は六カ月ごとに子供を見にやってきた。しかし子供が変わっていることには気づかなかった。「旦那様《だんなさま》、」とマニョンは彼に言った、「まあふたりともほんとによく旦那様に似ていますこと!」
 容易に姿を変え得るテナルディエは、その機会に乗じてジョンドレットとなりすました。ふたりの娘とガヴローシュとは、ふたりの小さな弟がいたことにはほとんど気づく暇もなかった。ある程度の悲惨に陥ると、人は奇怪な無関心の状態になって、人間をも幽霊のように思えてくる。最も親しい身内の者でも、ただぼんやりした影の形にすぎなくなって、人生の朦々《もうもう》とした奥の方に辛うじて認められるだけで、それもすぐに見分けのつかない靄《もや》の中に消えうせてしまう。
 永久に見捨てるつもりでふたりの子供をマニョンに渡した日の夕方、テナルディエの女房はそれでもある懸念を感じた、あるいは感じたらしい様子をした。彼女は亭主に言った、「これではまるで子供をうっちゃるようなものだね。」さすがしっかりした冷淡なテナルディエは、それを一言で押さえつけた、「ジャン・ジャック・ルーソーだってこれ以上のことをしている!」女房の懸念は不安の念に変わった。「でも警察で何とか言い出したらどうしようね。あんなことをして、お前さん、まあいいだろうかね。」テナルディエは答えた。「何をしたっていいやね。だれにもわかるもんか。その上一文なしの餓鬼どものことだ、だれも気をつける者はありゃあしねえ。」
 マニョンは悪党どもの間ではちょっと品の
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