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 真の愛は、一つの手袋を失い、一つのハンカチを見いだすにも、あるいは絶望しあるいは狂喜する。そしてまた、その献身とその希望とのために永遠を求める。真の愛は、無限の大と無限の小とから同時に成り立っている。
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 汝もし石ならば、磁石たれ。汝もし草ならば、含羞草《ねむりぐさ》たれ。汝もし人ならば、愛であれ。
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 何物も愛に如《し》くものはない。人は幸福を得れば楽園を望み、楽園を得れば天国を望む。
 おお愛する汝よ、すべてそれらは愛のうちにある。それを見いだす術《すべ》を知れ。愛のうちには、天国と同じき静観があり、天国に優《まさ》ったる喜悦がある。
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 彼女はまだリュクサンブールへきますか。――いいえ。――彼女が弥撒《ミサ》を聞きに来るのはこの会堂へではありませんか。――もうきません。――彼女はまだこの家に住んでいますか。――移転しました。――どこへ行きましたか。――何とも言ってゆきませんでした。
 自分の魂とする人がどこにいるかを知らないことは、いかに痛ましいことであるか。
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 愛には子供らしいところがある。他の情にはそれぞれ卑しいところがある。人を卑小ならしむる情は皆恥ずべきかな。人を子供たらしむる愛は讃《ほ》むべきかな!
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 不思議なる一事を汝は知っているか。私は今暗夜のうちにいる。ひとりの人が立ち去りながら、天を持ち去ってしまったのである。
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 ああ、互いに手を取って共に同じ墳墓の中に横たわり、暗やみの中に時々指をやさしくなで合うことを得たならば、私は永劫《えいごう》にそれで足りるであろう。
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 愛するがゆえに苦しむ汝よ、なおよく愛せよ。愛に死するは愛に生きることである。
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 愛せよ。星をちりばめたる人知れぬ変容は愛の苦悶《くもん》に伴う。愛に死する苦悩のうちには恍惚《こうこつ》たる喜びがある。
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 おお小鳥の喜びよ! 彼らが歌うは巣を有するがゆえである。
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 愛こそは、楽園の空気を吸う天国的な呼吸である。
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 深き心の者らよ、賢き精神の者らよ、神の造りたまいしままに人生を受け入れよ。それは長い試練であり、未知の宿命に対する測り難い準備である。この宿命は、真の宿命は、人にとっては墳墓の中に一歩をふみ入れるとともに始まる。その時何物かが現われてき、人は決定的なるものを認め始むる。決定的なるもの、この一語を黙想せよ。生者は窮まりなきものを見る。決定的なるものはただ死者にのみ示される。まずそれまでは、愛し苦しめよ、希望し静観せよ。ああ、肉体と形体と外観とをのみ愛する者は不幸なるかな。死はそれらのすべてを奪い去るであろう。魂を愛することをせよ、さらば魂は死しても再び見いださるるであろう。
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 愛をいだいているきわめて貧しいひとりの青年に、私は街路で出会った。帽子は古く、上衣はすり切れ、肱《ひじ》には穴があいており、水は靴《くつ》に通っていた。しかも星はその魂にはいっていた。
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 愛せらるるというはいかに偉大なることであるか。愛するというは更にいかに偉大なることであるか! 心は情熱のために勇壮となる。その時心を組み立つるものは至純なるもののみであり、心をささうるものは高きもの大なるもののみである。蕁麻《いらくさ》が氷河の上に生じないごとく、卑しい考えは一つもそこに生ずることを得ない。高き朗らかなる魂は、卑俗なる情熱や情緒の達し得ない所にあって、この世の雲や影、愚蒙《ぐもう》や欺瞞《ぎまん》や憎悪《ぞうお》や虚栄や悲惨、などの上にはるかにそびえ、蒼空《そうくう》のうちに住み、あたかも高山の頂が地震を感ずるのみであるがように、ただ宿命の深い地下の震動を感ずるのみである。
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 世に愛をいだく人がなかったならば、太陽も消えうせてしまうであろう。
[#ここで字下げ終わり]

     五 手紙を見たる後のコゼット

 その手記を読んでるうちに、コゼットはしだいに夢想に陥っていた。最後の一行を読んで彼女が目を上げた時、ちょうど例の時刻で、あの美しい将校が揚々として鉄門の前を通っていった。コゼットは彼をいとうべきものに思った。
 彼女はまた手帳をながめ始めた。きわめて麗わしい筆跡であると彼女は思った。皆同じ手跡ではあったが、インキの色は種々であって、時にはごく黒く、時には薄く、あたかもインキ壺《つぼ》に何度もインキを注したがようで、従ってまた書かれた日もそれぞれ異なっていることを示していた。それでみると、嘆息のまにまに、不規則に、秩序もなく、選択もなく、目的もなく、折りに従って、考えをそのまままき散らしたものらしかった。コゼットはかつてこんなものを読んだことがなかった。その手記中に彼女は陰影よりはなお多くの光明を認めて、あたかも聖殿の中をのぞき見るような気がした。それらの神秘な各行は、彼女の目に光り輝き、彼女の心を不思議な光輝でみなぎらした。彼女の受けた教育は、常に魂のことを説いていたが、かつて愛のことを説かなかった。燃えさしの薪《まき》のことを説いて、炎のことを説かないと同じだった。ところがその十五ページの手記は、彼女に突然やさしく示してくれた、すべての愛や、悲哀や、宿命や、人生や、永遠や、始めや、終わりやを。それはちょうど、突然開いて一握の光輝を投げ与えてくれる手のようなものだった。彼女はそれらの行のうちに感じた、情に燃えた熱烈な豊饒《ほうじょう》な正直な性質を、聖《きよ》い意志を、大なる悲哀と大なる希望を、思いもだえる心を、また恍惚《こうこつ》たる喜びの発揚を。その手記は何であったか。一つの手紙であった。住所もなく、あて名もなく、日付もなく、署名もないものであり、至急なものではあるが私心なきものであり、真実で成り立った謎《なぞ》であり、天使に運ばれ処女に読まれんために書かれた愛の使命であり、この世の外でなされる会合であり、影に向かって送られた幻のやさしい便りだった。手紙の主《ぬし》は、遠く離れた静かな悩める男であって、まさに死のうちに身をのがれんとしているかのようであり、しかも見るを得ない女のもとへ、宿命の秘密を、人生の鍵《かぎ》を、愛を、贈ってよこしたのである。それは足を墓の中に踏み入れ指を天に差し上げて書かれたものであった。紙の上に一つずつ落とされていったそれらの言葉は、言わば魂の点滴とも言うべきものであった。
 さてそれらのページは、いったいだれから贈ってきたものであるか、だれがそれを書いたのであるか?
 コゼットは少しも疑わなかった。ただひとりの人である。
 彼!
 彼女の心のうちには再び日がさしてきた。すべてが再び現われてきた。彼女は異常な喜びと深いもだえとを感じた。それは彼であった。彼女に手紙を書いたのは彼であった。そこにいたのは彼であった。鉄門から腕を差し入れたのは彼であった。彼女が彼を忘れていた間に、彼は再び彼女を見いだしたのだった。しかし彼女は実際彼をわすれていたのだろうか? 否、決して! 彼女は愚かにも、彼を忘れたと一時思ったのだった。しかし彼女は常に彼を愛していた、常に彼を欽慕《きんぼ》していた。火はしばしおおわれてくすぶっていた。しかし彼女は今はっきりと知った。火はただいっそう深く進んでいたのみである。そして今や新たに爆発して、彼女をすべて炎で包んでしまった。その手帳は、も一つの魂から彼女の魂のうちに投げ込まれた火粉のようなものだった。彼女は再び火が燃え出すのを感じた。彼女はその手記の一語ごとに胸を貫かれた。彼女は言った。「ほんとにそうだわ。私はこれを皆覚えている。みな一度あの人の目の中に読み取ったものばかりだ。」
 彼女が三度くり返してそれを読み終えた時、中尉テオデュールは鉄門の前に戻ってきて、舗石《しきいし》の上に拍車を踏み鳴らした。コゼットは目を上げざるを得なかった。しかし今や彼は、無味乾燥な、ばかな、愚かな、無益な、自惚《うぬぼれ》の強い、いやな、無作法な、ごく醜い男としか、彼女には思われなかった。将校の方では義務とでも思ってか彼女にほほえみかけた。彼女はそれを恥じかつ怒って横を向いた。彼の頭に何か投げつけてやりたいとさえ思った。
 彼女はそこを逃げ出して、家の中にはいり、そして手記を読み返し暗唱し夢想せんがために、自分の室《へや》の中に閉じこもった。十分に読んでしまった時、彼女はそれに脣《くちびる》をつけ、それをふところにしまった。
 それが済んでコゼットは、天使のような深い恋に陥った。エデンの深淵《しんえん》は再びその口を開いた。
 終日コゼットは正気を失ったかのようだった。ほとんど物を考えることもできず、頭の中には雑多な思いが麻糸の乱れたようになり、何物もわきまえることができず、ただうち震えながらねがっていた、何を? それもただ種々な漠然《ばくぜん》たることに過ぎなかった。何事をも確言し得なかったが、何事をも自ら拒もうとはしなかった。顔は青ざめ、身体は震えていた。時としては幻のうちにはいったような気がして、自ら言った、「これは実際のことだろうか。」その時彼女は、上衣の下のいとしい紙にさわってみ、それを胸に押しつけ、自分の肉体の上にその角を感じた。そういう時もしジャン・ヴァルジャンが彼女を見たならば、その眼瞼《まぶた》のうちにあふれてるなぜともわからぬ光り輝いた喜びを見て、身を震わしたであろう。彼女は考えた。「そう、確かにあの人だわ。これは私にあててあの人から下すったのに違いない。」
 そして彼女は自ら言った、天使が中に立ち天が力を貸してあの人をまた自分の所へこさしたのであると。
 おお愛の変容よ、おお夢よ! この天の助力とは、この天使の仲介とは、フォルス監獄の屋根越しにシャールマーニュの中庭から獅子《しし》の窖《あなぐら》へ、一盗賊から他の盗賊へあてて投げられた、あの一塊のパンの球《たま》にほかならなかったのである。

     六 老人は適宜に外出するものなり

 晩になってジャン・ヴァルジャンは出かけた。コゼットは服装《みなり》を整えた。まず一番よく似合うように髪を結び、それから一つの長衣をつけたが、その襟《えり》は一|鋏《はさみ》だけよけいに切ったもので、そこから首筋が見えていて、若い娘らがいわゆる「少しだらしない」と称するものだった。しかしそれは決してだらしないものではなくて、何よりもまずかわいいものであった。彼女はなぜとも自ら知らないでそういうふうに身じまいをした。
 彼女は出かけるつもりだったのか。否。
 彼女は人の訪問を待っていたのか。否。
 薄暗くなって、彼女は庭におりていった。トゥーサンは後ろの中庭に面した台所で用をしていた。
 コゼットは低い枝があるのを時々手で払いのけながら、木の下を歩き出した。
 そして彼女は腰掛けの所へ行った。
 石はまだそこにあった。
 彼女はそこに腰をおろし、やさしい白い手を石の上に置いた。あたかもそれをなでて礼を言ってるかのようだった。
 と突然彼女は、だれかが後ろに立ってるのを目には見ないでもそれと感ぜらるる、一種の言い難い感じを受けた。
 彼女はふり向いて、立ち上がった。
 それは彼であった。
 彼は帽子もかぶっていなかった。色は青ざめやせ細ってるようだった。その黒い服がようやく見分けられた。薄ら明りはその美しい額をほの白くし、その目を暗くなしていた。たとえようのないしめやかな靄《もや》の下に、何となく死と夜とを思わせる様子をしていた。その顔は暮
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