ールに何らの注意も払わなかった。りっぱな女たちが駅馬車から降りてきたが、彼はその方にも目を注がなかった。彼は周囲のこと何一つ目にはいらないようだった。
「よほど夢中になってるな。」とテオデュールは考えた。
 マリユスは教会堂の方へ向かって行った。
「すてきだ。」とテオデュールは自ら言った。「会堂だな。弥撒《ミサ》でちょっと味をつけた媾曳《あいびき》はいいからな。神様の頭越しに横目とはしゃれてるからな。」
 教会堂まで行くと、マリユスはその中にはいらないで、裏手の方へ回っていった。そして奥殿の控壁の角《かど》に見えなくなった。
「外で会うんだな。」とテオデュールは言った。「ひとつ女を見てやるかな。」
 そして彼は靴《くつ》の爪先《つまさき》で立って、マリユスが曲がった角の方へ進んで行った。
 そこまで行くと、彼は呆然《ぼうぜん》と立ち止まった。
 マリユスは額を両手の中に伏せて、一つの墓の叢《くさむら》の中にひざまずいていた。花はそこに手向《たむ》けられていた。墓の一端に、その頭部のしるしたる小高い所に、黒い木の十字架が立っていて、白い文字がしるしてあった、「陸軍大佐男爵ポンメルシー。」マリユスのむせび泣く声が聞こえた。
 女とは一基の墓だったのである。

     八 花崗岩と大理石

 マリユスが初めてパリーを去って旅したのは、そこへであった。ジルノルマン氏が「家をあけるんだな。」と言ったたびごとに彼が立ち戻ったのは、そこへであった。
 中尉テオデュールは、意外にも墳墓に出くわしてまったく唖然《あぜん》とした。墳墓に対する敬意と大佐に対する敬意との交じった、自ら解き得ない一種の不思議な不安な感情を覚えた。そしてマリユスをひとり墓地に残して退いた。その退却には規律があった。死者は大きな肩章をつけて彼に現われ、彼はそれに対して挙手の礼をしようとまでした。伯母《おば》に何と書いてやっていいかわからないので、結局何にも書いてやらないことにした。そしてそのままでは、マリユスの恋愛事件についてテオデュールがなした発見からは、おそらく何らの結果も起こらなかったであろうが、しかし偶然のうちにしばしばある不思議な天の配剤によって、ヴェルノンのそのできごとの後間もなく、パリーで一つの事件がもち上がった。
 マリユスは三日目の朝早くヴェルノンから帰ってきて、祖父の家に着いた。そして駅
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