ャなかった。新聞は客間と一致して一つの草双紙にすぎないらしかった。若い人々もいたが、それもみな多少死にかかっていた。控え室においても、接待員はみな老耄《おいぼれ》だった。まったく過去のものとなっているそれらの人物には、やはり同じ種類の召し使いが仕えていた。それらのようすを見ると、もう長い前に生命を終えながら、なお頑固《がんこ》に墳墓と争っているかのようだった。保存する、保存、保存人、そういうのが彼らの辞書のほとんど全部の文字だった。「においがいい[#「においがいい」に傍点]」(評判がいい)ということが問題だった。実際それらの尊ぶべき群れの意見のうちには香料があった、そしてその思想にはインド草の香《かお》りがしていた。それは木乃伊《ミイラ》の世界だった。主人はいい香りをたき込まれており、従僕は剥製《はくせい》にされていた。
亡命し零落したひとりのりっぱな老侯爵夫人は、もうひとりの侍女しか持っていなかったが、なお言い続けていた、「私の女中ども[#「私の女中ども」に傍点]」と。
T夫人の客間のうちで人々は何をしていたか? 彼らはみな過激王党派だったのである。
過激派《ユルトラ》である、というこの言葉は、それが表現する事物はおそらくまだ消滅しつくしてはいないであろうが、言葉自身は今日ではもはや無意味のものとなっている。その理由は次の通りである。
過激派であるということは、範囲の外まで逸することである。王位の名によって王笏《おうしゃく》を攻撃し、祭壇の名によって司教の冠を攻撃することである。おのれが導くものを虐遇することである。後ろに乗せて引き連れてるものを後足《あとあし》でけることである。邪教徒の苦痛の程度が少ないと言って火刑場を悪口することである。崇拝されることが少いと言って偶像を非難することである。過度の尊敬によって侮辱することである。法王に法王主義の不足を見いだし、国王に王権の不足を見いだし、夜に光の過多を見いだすことである。白色の名によって石膏《せっこう》や雪や白鳥や百合《ゆり》の花などに不満をいだくことである。敵となるまでに深く味方たることである。反対するまでに深く賛成することである。
過激的な精神は、ことに王政復古の第一面の特質である。
およそ歴史中、一八一四年ごろから初まり右党の手腕家ヴィレル氏が頭をもたげた一八二〇年ごろに終わったこの小期間に、相
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