が、あるいは、きょう明日にも、気が狂うかも知れない。見給え。あの方船《はこぶね》の生存者たちは、すでに気が狂っているではないか」なるほど、彼等は、もう沈着、自制を失って、甲板上で、狂おしく泣き叫びながら、お互の身体《からだ》を引掻《ひっか》いたり、叩《たた》き合ったりしている。
「おお、あいつ等は、もう気が狂いかけたのか」
 僕は、暗然となった。僕等もまた、ほどなく、気が狂い、心臓が破裂して、幽霊船と、運命を倶《とも》にするのか。
 恐ろしい一夜が明けた。
 幽霊船は、相変らず、大渦巻の中心を、独楽《こま》のように、急速度に回転している。
 睡眠不足と、心理的な疲労のために、僕は、まだ正気なのかどうかを疑って、四辺《あたり》を見廻した。
 二老人も、陳君も、ゆうべと同じ箇処で、宿命の死を待っている。彼方《かなた》の中甲板をみると、約半数は、すでに気を失って、海賊たちの屍骸《しがい》に折重って斃《たお》れ、あとの半数は、わずかに手足を動かして藻掻《もが》いているが、もう正気の沙汰《さた》ではない。
 僕は、しかし正気だ。まだまだへこ垂《た》れない。陳君はと見ると、彼も、唇を噛《か》みしめながら、じいと堪《こら》えている。二老人も、沈痛な顔に、疲労の色をみせているが、二人は、最初から宿命とあきらめているので、気を失うことはない。
「どうして、僕等四人だけが、気が狂わないのだろうか」僕は、陳君に訊ねた。陳君の答えは、頗《すこぶ》る明快だ。
「君は、日本人だろう。日本人は、鉄のような心臓を持っているからだ」
「では、二老人は?」
「二老人は、ドイツの科学者だ。ドイツ人の沈着、剛毅《ごうき》な精神力が、この心理的な残虐に堪え得るだろうとおもう」
「なるほど……君は?」
「僕は、中国人だ。東洋人は、概して西洋人よりも心臓が強健だ。けれど、日本人にはかなわぬよ。しかし、僕は、安南人《あんなんじん》の巨《おお》きな心臓を移し植えられたので、そこで、君の鉄の心臓に負けないくらい強いのだ」しかし、いくら剛毅な精神の所有者でも、鉄の心臓の持主でも、この難局を打破ることは出来ないだろう。技術員たちより、一日か二日|生延《いきの》びるだろうが、やがて、同じ運命に陥るのはわかり切っている。
「どうだろう。この船から、海中へ飛込んで見たらどうだろう」と、陳君は奇抜なことを云う。
「すると、どうなるかね」
「海へ飛込んで、海中深く潜りながら、大渦巻の圏外へ脱れるのさ。僕は、鉄の心臓の所有者だから、一気に脱れ出られるとおもうよ」「だが、この大渦巻は、表面だけではないのだぜ。きっと、海底まで、渦を巻いているよ。だから、海へ飛込んで見給え。忽《たちま》ち、海中へ捲《ま》き込まれるにきまっているさ」
「なるほど。そうだ」先刻から、何事かじいっと考え込んでいた老博士は、僕等に向って、
「君たちは、それほど、生きたいのか。……では、この幽霊船を脱れる工夫をするがいい」
「それが出来ますか」陳《チャン》君は、息をはずました。
「君は、海へ飛込もうといったが、それは無茶だ。海よりか、大空へ脱れる方が、はるかに容易じゃないか。大空には、こんな渦巻がないだろう」
「ああそうだ。大空へ脱れよう。……でも、博士。翼もない僕等は、どうして大空へ脱れることが出来ますか」
「それを考えるのさ」老博士は、泰然として云った。

     別離の悲しみ

 僕は物凄く渦巻く海面を見ていて、悠々とひろがる大空を見上げなかったのだ。海上を脱れ出ることが不可能だとあきらめる代りに、大空は、僕を救おうとして、手を伸べて待っている。こう考えたとき、僕は、独楽《こま》のように、ぐるぐる廻る幽霊船の甲板で、大空へ脱れ出る方法について、工夫を凝《こら》すだけの、心の余裕を生じた。
 老博士の指図にしたがって、一個の飛行機を建造しつつあるのだ。飛行機! 冗談いっちゃいけない。飛行機をつくる材料など、何一つない、北洋通いのどろぼう[#「どろぼう」に傍点]船ではないか。空想しただけでも、おかしいではないかと、笑うかも知れない。では、飛行機といわず、単に飛翔機《ひしょうき》といおう。幽霊船の甲板で、独楽のように、ぐるぐる廻りながら、苦心|惨憺《さんたん》して製作しているのが、この飛翔機だ。いやむしろ、風船といった方がいい。
 幸い、二人の科学者が、協力してくれる。科学者は、不可能なことを可能ならしむるに妙を得た神人だ。殊に老博士は、人造島を創案した大科学者だ。彼は幽霊船中にある帆布《はんぷ》や、麻布を、僕等に集めさした。それを縫合《ぬいあわ》すのは、生理学者の怪老人の仕事だった。そのままに、僕等は、船内を隈《くま》なく探し廻って、蝋《ろう》や、ゴム類を夥《おびただ》しく集めて来た。
「それを、麻布に塗りたまえ」
 老博士の命令どおり、たんねんに麻布に塗った。
 まもなく長さ数メートルの大きな蝋塗りの麻袋が出来上った。それに幾本かの麻縄《ロープ》を結び、その端に、ハンモックを取付けた。
「これでよい。この原始的な飛翔機で、大空へうかび上るのだ」
 老博士は、満足げに云った。
「でも、博士、この麻袋の中へ、瓦斯《ガス》を填《こ》めなければ浮びませんよ」
「勿論《もちろん》さ。瓦斯の代りに、冷凍室で使う圧搾空気を入れたらいい」
「ああ、そうだ圧搾空気をつくろう」
 僕は、悦《うれ》しげに叫んだ。
 烈《はげ》しい風が吹いていた。風船を空に浮べるに絶好の日だ。
 陳君は、この日朝から汽罐《かま》を焚《た》いた。蒸気が機関のパイプに充満すると、動力をはたらかして、圧搾空気をつくった。それを甲板まで導いて、麻布の風船の中へ充填《じゅうてん》した。
 天佑か、奇蹟《きせき》か、大きな麻袋は、大きくふくらみ、空へ飛翔せんとて暴れ廻る。その口を固く結んで、縄を船橋《ブリッジ》の柱へ縛りつけた。
「おい、はやく、ハンモックへ乗りたまえ」
 老博士は、僕等を促した。
「博士は?」僕は訊ねると、彼は叱《しか》りつけるように、
「この、不完全な風船に、われわれが乗れやしないじゃないか」
「でも、僕等だけ……」
「何を云うのか、おまえたちは、前途有為な少年じゃ。この魔の海を脱れなければならないが、われわれ老人は、もう任務が終ったので、この幽霊船と運命を倶《とも》にするのじゃ」
「そうだ。君たち少年だけで、大空へ脱れたまえ。わしと、博士とは、従容《しょうよう》して、君たちを送るよ」怪老人も、僕等を促す。
「それはいけません。僕等は、あなた方を見殺《みごろし》には出来ません」
「またそんなことを云う。この風船は、四人の人間を乗せることが出来ないのだ。君たち二人が乗っても、危険なくらいだ。が、この船で死ぬよりか、ましだとおもって乗りたまえ」
「でも」
「まだ躊躇《ちゅうちょ》するか。いかん。せっかく充填した圧搾空気が効力を失い、浮揚力を失ってしまうじゃないか。それ、もっと圧搾空気を填《こ》めろ」
 ふたたび、圧搾空気を、風船に填めた。
「さあ、一刻もはやく、ハンモックに乗りたまえ」
「…………」僕等は、もう拒むことも出来ず、ハンモックに乗った。
「博士、では」
「先生! きっと迎えに参りますよ。それまで生きていてください」僕等が、涙ぐみながら、口々に叫んだとき、船橋の根元の柱に縛りつけてあった麻縄《ロープ》を、怪老人は解いた。おお、果して、この不完全な風船は、大空に浮き上った。
「博士。さよなら」
「先生! 御壮健で……」あとは涙。甲板上の二老人も、両眼に涙を湛《たた》えて、
「おお、元気な日本の少年よ。中国の少年よ。必ず祖国へ帰れよ」
「圧搾空気は瓦斯《ガス》のようなわけにはいかぬから、やがて風船の浮揚力は失うが、それまでにこの魔の海を脱れ出るがよい。運命の風よ。強く吹け」口々に叫びながら、多難な前途を案じ顔だった。
 幸いに、風が強く、僕等をのせた怪しげな風船は、幽霊船の上空を離れて、大渦巻の圏外へ吹き飛ばされようとする。
「さようなら……」
「さよなら!」僕も、陳《チャン》君も、泣きながら叫んだ。

     風船の墜落

 僕等を乗せた風船が、風に吹きつけられて、やっと、大渦巻の圏内を脱したとおもうころ、予期したとおり、いや案外にはやく麻袋の風船は、浮揚力を失って、大海原に墜落した。
「あッ!」僕も、陳君も、絶望の叫びをあげた。
 が、ふしぎにも、僕等は、それなり海底へ沈まなかった。
「おや」「おや!」
 横に倒れたまま、海に墜落した風船は、海底に沈まず、ふわりと浮んだままだ。
 二人とも、水に溺《おぼ》れかけながら、顔を見合った。
「風船が水に沈まないぜ」
「ほんとうだ。……麻袋に蝋《ろう》を塗ってあるからだろう」
「それにちがいない。試しに、あの風船に乗って見ようか」
「よかろ」二人は、ハンモックを離れて、畳のように海面に拡がった風船に這《は》い上った。大きな麻袋なので、二人を乗せても平気だった。
「天佑天佑」僕らは手を拍《う》ってよろこんだ。
「思慮の深い博士の考案だ。これくらいのことは当然だろう」
「まったくだ。こいつは、まるで革の船みたいだね」救《たす》かったとおもったら、急に眠くなった。
 二人は、風船の浮船の真中ごろに陣取って、横になった。
「お腹が空いて、ぺこぺこだ」僕がいうと、陳君は、
「贅沢《ぜいたく》いうなよ。あの大渦巻に捲き込まれて、独楽《こま》のように廻っている老博士たちのことを考えたら、贅沢は云われないぜ」
「そうだ」
「怪老人も、博士も、じつに偉大な科学者だ。あの魔の海で死なしたくはないね」
「まったくだよ。僕は、何とかして救《たす》けてあげたいとおもっている」
「そうだな。何とか、この辺で、飛行機にでもめっからないかな。そうすると、飛行機の人に救助して貰うンだが……」
「そんな旨《うま》い具合にいくものか」
「でも、運命って奴《やつ》は、わからんよ。こうして漂流しているうちに、ひょっとして、この上空を飛行機が通らぬとも限らんよ」
「夢みたいな話さ」
「そうかなア」二人は疲労のためにうとうとした。
 と、意外意外、それから数時間ののち、その日の夕方、僕等の漂流する上空はるかに、壮快な飛行機のプロペラの音がきこえはじめたではないか。「あッ! 飛行機だ」
「そら見ろ。とうとうやって来たではないか。万歳! 万歳」
 僕は、雀躍《こおどり》して叫んだ。

     空《むな》しい救助

 僕等を救助した飛行機は、祖国日本の大型海軍機だった。
 遠洋における耐空試験をやっていて、奇妙な革船に乗って漂流する僕等を発見したわけだ。
 やさしい海軍の飛行将校たちは、僕等を救助し、飛行機に乗っけてくれたばかりでなく、いろいろ珍しい携帯糧食を、頒《わか》ち与えてくれた。固型|寿司《ずし》や、水玉のように、ごむ袋の中に入った羊羹《ようかん》は、とても美味《おい》しかったので、舌鼓を打つと、将校の一人は、
「小僧、そんなに旨《うま》いかい」顔を覗《のぞ》き込んだ。
「だって、随分お腹《なか》を空《す》かしているンですよ」
「だが、そんなに食べると、胃袋がびっくりするぜ」
「閣下」僕は、将校の一人に、こういうと、
「ハ……。閣下はありがたいな……」
 と、笑われた。海軍大尉は、閣下じゃなかった。
「では、訂正します。大尉殿。僕等を救けて下すってありがたいが、ついでに、もう二人救けて下さい」
「もう二人?」
「そうです。いまもいったとおり、魔の海の大渦巻に捲き込まれた、幽霊船にいる、二人の科学者を、一刻もはやく救助して下さい。この大型の飛行機は、まだ二人ぐらい収容できましょう」
「おう、その二人か。むろん救助したいが、その渦巻く大鳴門《おおなると》の方向が、小僧には、わかるかい」
「さア……夢中で脱れて来たので、方向は、わかりませんが、あまり遠くはないですよ」
「そうか、よし来た」元気一杯な操縦士の返事だ。
 長距離飛行に耐ゆる、わが優秀な海軍機は、僕等を乗せて、割合に低空を飛んだ。東に、西に、南に、北に……。海洋の魔所…
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