のために、絶好の機会をつくってくれたのじゃ。そこに斃《たお》れている少年の心臓が、ピストルに射貫《いぬ》かれ、打砕かれたのを摘出し、それにいる安南人の健全な心臓と取替えたのじゃ。すると、どうじゃ。少年の屍骸は、たちまち、むくむくと起き上ったのだ」
「うむ。……しかし、少年は、屍骸となっているのではないか」
「待ちたまえ。心臓の入替を実験するだけではなく! そのあとで、もっと重大な実験をなしたのじゃ。人間の生命を永遠に保存することだった」
「えッ! 生命の保存?……それは、考えられぬことだ。空想に過ぎない」
老博士が叫ぶと、怪老人は、冷《ひやや》かに笑って、
「空想が実現した例は、むかしから無数にある。まして、わしの、生命保存の真理は、空想ではなく、三十年来の実験の結果、到達したものじゃ。わしは、一旦死んだ少年の、左胸部を抉って心臓を取替えて蘇生《そせい》せしめたので、少年の生命は、わしの所有といってよい。そこで、蘇生した少年に、わしの創案した防腐剤を注射し、そして、ふたたび殺してみたのじゃ。なるほど、少年は死んでいる。が、それは、仮死の状態にあるので、生命は、永遠に保存されてあるのじゃ」
「うむ。……事実とすれば、まさしく科学の奇蹟《きせき》じゃ」
「どうじゃ、疑うなら、もう一度、少年の屍骸に息を吹込んで見ようか」
「どうか、やって下さい」僕はわれを忘れて叫んだ。
「よろしい。おまえたちの眼の前で、屍骸が、立ち上るだろう。さっそく実験してみよう」
屍骸が動く
白衣《びゃくえ》の怪老人は、そのまま船室の方へ消えたが、再び現われたとき、例の大きな鞄を抱えてやって来た。「これが、わしの玉手函《たまてばこ》じゃ」彼は、不気味に笑って、陳《チャン》君の屍骸の方へ、よろよろと近より、白衣《びゃくえ》の腕をまくり、鞄から、幾本かの注射器を取出し、屍骸《しがい》に手をかけた。
「その辺に、ごろごろしている屍骸をみるがよい。三ヶ月の漂流で腐敗して、形は崩れているはずだのに、そのように生々しいのは、わしの創案した防腐剤のおかげじゃ、少年の身体の防腐剤を解消するために、ベツな注射を幾本か施すのじゃ」
「では、ほかの屍骸にも、その注射を施すと、みんなが生き還《かえ》りますか」僕は、不安になって訊《たず》ねた。みんな生き還ったら、どんなにまた暴れるかしれないと、おもったからだ。
「いや、ほかの奴等は、死んだものに防腐剤を施したのだから、肉体のみを防腐したに止って生命は再び肉体に還っては来はせぬ。この少年は、生きたまま防腐剤を施したのじゃから、それを解消すると、この白蝋《はくろう》のような顔が、忽ち紅潮してくれるだろう」
「はやく、注射して下さい」
「よろしい」
怪老人は陳《チャン》君の屍骸の腕に幾本か注射を試みた。
「これでよろしい。見ていたまえ。屍骸が動き出すであろう」僕も、老博士も、非常な興味を覚えて陳君の屍骸に注目した。
五分、十分、十五分……と経つうちに、やがて、白蝋のような屍骸の顔に、血の色がさして来た。
「おお」老博士は、低く呻《うめ》いた。こんどは、眉毛《まゆげ》が微《かす》かに動いた。手足が、ビクリビクリと微動した。
「おお、陳君!」僕は、おもわず叫んで、屍骸に駈《か》け寄ると、怪老人は、手をあげて制し、
「静かに、静かに」用意の葡萄《ぶどう》酒を二、三滴、屍骸の口へ垂らしてやった。すると、陳君は、眼をひらいて、四辺《あたり》をきょときょと見廻した。
「おお、気がついたか。わしだよ」怪老人は、陳君の顔を覗《のぞ》いた。
「ああ、先生!」
「おまえの友人が、見舞に来てくれているぞ」
「えッ!」陳君は、顔をあげて、僕を見た。
「おお、陳君! 僕だ、僕だ」
「おお、[#「おお、」は底本では「おお 」]山路君!」陳君は、余りの悦《うれ》しさに、涙をいっぱい両眼に湛《たた》えて、
「よく、無事でいてくれた」僕も、感激の涙を流して、陳君の手を固く握りしめた。
怪老人と老博士。これもまた、感激に身を顫《ふる》わしながら、手を握り合った。
「あなたは世界最大の科学者です」これは老博士だ。
「ありがとう」白衣の怪老人は、少年のように、羞《はに》かんで応えた。
「あなたを、亡霊とおもったのは、われわれの不明でした」
「いや、亡霊であるかもしれない。何故なら、この船は、足を失った死の船だからねえ」
「そうだ、死の船!」
「わしは、人間の心臓を取替えることが出来、死んだ人間を生き還らせることさえ出来るが、死んだ船を蘇生さすことは出来なかったよ。ハハハハハ」
なるほど、この偉《すぐ》れた生理学者は、黒船の心臓を生かすことは出来ないのだ。僕は、
「博士、あなたは、人造島をつくった方です。人造島の心臓部の設計をしたぐらいですから、この黒船の故障を直せるでしょうね」
と、老博士にいうと、陳君は、それを引取って、
「そうだ。この船の心臓部の故障を直していただくと、僕は機関士、山路君に運転士、たちまち船を動かして、一路、日本の横浜へ直航が出来ますぜ」
怪老人も、肯《うなず》いた。
「なるほど。人間の心臓の手入れは、わしの得意とするところじゃが、船の心臓の手入れは、博士におねがいするとしよう」老博士は、とうとう、機関《エンジン》の修理を押付けられてしまった。
「炭水はあるかね」
「あります。この三ヶ月、一塊の石炭も使わなかったので□」
「機械油は?」
「それも十分です」
「ではひとつ、心臓の手入れをしてみようか」老博士は、やっと腰をあげた。陳君は、僕に向って、
「君は、また運転士だぜ。すぐ用意をしたまえよ。博士の修理が出来たら、僕は、すぐに機関を動かしてみせる。そのまに、石炭を汽罐《かま》に放り込んで置こうか」気の早い陳君は、逸早《いちはや》く昇降口から姿を消してしまった。
魔の海! 魔の海!
果して、数時間ののち、幽霊船|虎丸《タイガーまる》は、運命の方船《はこぶね》を、海洋に捨て、単独で動き出した。心臓部の機関が、軽快な響きを立てて回転し、太い煙突からは、海洋を圧するような黒煙が吐き出され、十五|節《ノット》の速度で、西に針路を執って航行しはじめた。僕は、得意満面である。西へ! 西へ! 西方には、祖国日本が横《よこた》わっている。
僕は、運転室で、やたらに口笛を吹いた。
数ヶ月前、横浜|埠頭《ふとう》で、ハマの船員たちに騙《だま》されて、密猟船虎丸のボーイとして乗船した僕が、今は、素人ながら、一等運転士の貫録をみせて、納り返っているなど、まったく夢のようだ。どろぼう[#「どろぼう」に傍点]船の奴隷が、どろぼう船を分捕って祖国へ凱旋《がいせん》するのだ。僕は、運転室で、得意になって口笛を吹いていたとき、ふとコンパスが狂いだしたのを発見して、「あッ!」と低く呟いた。コンパスが狂ったのは、コンパス自身の罪ではなく、何かの、見えぬ力が、船の進行を邪魔しはじめたからだ。機関《エンジン》の狂ったのでも、汽罐《かま》が破裂したのでもない。船が、急湍《きゅうたん》のような、烈しい潮流に乗って、目まぐるしい迅《はや》さで、一方向に急進しはじめたからだ。
「魔の海! 恐ろしい魔の海だ」僕は、それを知ると、急いで船首を急回転させようと焦った。
が、魔の海の潮流に逆うことは不可能だった。船は、急湍に乗り、ぐんぐん魔海に進んでいる。コンパスは狂いつづけ、舵機《だき》や、スクリウは、僕の命令に従わない。僕は、把手《ハンドル》から手を離し、呆然《ぼうぜん》として腕組みした。
そこへ、老博士や、怪老人や、船に収容した生残りの技術員たちが駈《か》けつけて来た。
「どうしたのだ」
「運転士! どうしたんだ」
人々は、口々に叫んでいる。僕は、悲痛な声をしぼって、
「船が、おそろしい潮流に乗ったのです。魔海の底に引《ひき》ずられて往きます」
「えッ!」人々はおどろいて前方へ視線を投げた。
おお急湍のような潮流の落つくところは、まさしく魔の海。そこは海洋の真只中《まっただなか》の大鳴門《おおなると》だ。約一海里平方ぐらいの海が、大渦巻をなして、轟々《ごうごう》と物凄《ものすご》いうなりをあげている。「あッ! 大渦巻だ!」「人をも、船をも、一呑みにする魔の海だ」
生残りの技術員たちは、口々に叫んで、船橋《ブリッジ》から転げ落ちるように、甲板に降りて、なおも、
「大渦巻だ!」
「救《たす》けてくれ!」
と、狂おしく叫び、右往左往している。さすがに、二人の科学者は、自若《じじゃく》として、一語も発せず、前方に横《よこた》わる物凄い大鳴門に、じいと眼を据《す》えた。
「博士。あなたは、この船の船首を転回させる方法を考えているのですか」
怪老人の生理学者は、ようやく口を開いた。
「いや、わしも、手の下しようがなく、呆然としているよ。しかし、何という壮観だろう。あの大きな渦巻は……」
「まったく。太平洋の真ン中に、こんな大鳴門《おおなると》があるとはおもわなかった。潮流は、四方から、急流をなして、あの大渦巻に、吸寄せられているさまは、見事なものですな……」
人々の驚愕《きょうがく》、悲鳴をよそに、二人の科学者は、泰然として、世にも不思議な海洋中の大渦巻に見惚《みと》れている。僕は、恐怖を忘れて、二老人の顔をみた。
おお、そういううちにも、狂おしい潮流は、いよいよ急激に、凄《すさ》まじい唸《うな》りをあげて、魔の海の大渦巻の中へ、幽霊船|虎丸《タイガーまる》を、一呑みにとばかり、引《ひき》ずり込んで往く。今度こそは、万事休矣《ばんじきゅうす》!
五 海洋の大渦巻
狂う人々
僕等を乗せた幽霊船は、不思議な大鳴門に吸い込まれ、大きく輪を描いて、ぐるぐる船首を独楽《こま》のように回転しはじめた。
一海里平方もあろうという大渦巻だから、外側をぐるぐる廻っているあいだは、甲板にある僕等も、さほど怖《おそ》ろしいとはおもわないが、だんだん内側の方へ吸い寄せられ、大渦巻の中心点をぐるぐる回転するようになると、その速度が、あまり迅《はや》く、めまぐるしくなって、甲板に立っていられなくなった。
「おお」「おお」技術員たちは、甲板に腹匍《はらば》いになり、半狂乱になって、哀叫している。
僕も、陳《チャン》君も、二人の科学者も、甲板に立っていられないので、それぞれ柱や、縄《ワイヤー》に取《とり》すがり、振落されるのを避けながら、互に顔を見合った。
急速度の回転のために、何だか頭が狂いそうだ。このまま気が遠くなって死んでしまうにちがいない。空も、海も、船も、人も、ぐるぐる狂い廻っているので、頭の中も、心臓も、血も、ぐるぐる狂い廻っているようだ。
「諸君、このままだと、われわれの生命《いのち》は、三日と保つまい。人間の肉体は、この急速度に対抗できても、心理的に疲れて、気が狂うか、もしくば心臓が破裂するだろう。まず、宿命とあきらめるのだね」生理学者の怪老人は、檣《マスト》から張られた縄に取《とり》すがりながら、冷たい言葉を吐いた。
「機関《エンジン》をうんとかけて、渦巻の反対の方向へ舵機《だき》を廻したら、少しは、急速度な回転を緩めることは出来ませんか」陳君は、機関士らしいことを云った。
「それは、徒労さ。この物凄《ものすご》い渦巻に反抗してみろ。舵機はまたたくまに折れ、船も真二つになりかねないよ」物理学者らしい老博士の答えだ。
「幽霊船と運命を倶《とも》にしたくないなら、この船を脱《のが》れることだね」陳君は僕に囁《ささや》いた。
「この魔の海を、どうして脱することが出来る?」
「さア、そいつは、僕の頭では考えられない。……あなたは、この幽霊船を脱することを、思案しているのではないのですか」陳《チャン》君は、怪老人に訊《たず》ねた。生理学者は、歯のない口を開いて笑った。
「ハハハハハ。心臓の入替なら、いつでも御用に応ずるが、宿命の大渦巻を脱れる工夫は、わしの手腕力量ではないね」「ほんとうに、絶望ですか」
「そうだね。三日間の生命といった
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