体を、わしに貸してくれぬかな」
「僕は、お断りします」
「そうか、厭《いや》か。……しかし、油断するなよ。真夜中ごろ、おまえの隙をうかがって、おまえの二つの腕に、注射せぬともかぎらぬからのう。ハハハ」
 怪老人は、不気味に笑った。
「生きた人間に、防腐剤を試みると、どうなりますか」
「死ぬまでさ。けれど、ほんとうに死んだのではないから、いつでも生き還《かえ》らせることが出来る」
「そ、そんな莫迦《ばか》なことは信じられません」
「信じられないなら、ひとつ、試みようか」
「真ッ平です。無理にそれを試みようというなら、腕ずくで試みなさい」陳《チャン》君の心臓――あの安南人《あんなんじん》の心臓は、こう力強く叫んだ。
「わしは、あくまでも、おまえを、わしの学説の実験にしようとおもっている。わしは、安南人の心臓を、おまえに移植しなかったら、あのとき限り、おまえは死んでいたのじゃ。それを、きょうまで生かしておいたのは、最後の実験、つまり、防腐剤注射によって、人の生命を、永遠に保たせることは出来るかを実証したかったからじゃ。おまえは、わしの愛するモルモットじゃ。今度こそ、わしの頼みをきいてもらおう」こう情誼《じょうぎ》をこめて頼まれると、さすがの陳君も、あっさり拒絶できなかった。
「どうじゃ、わしの願いをきいてくれぬか」
「…………」怪老人は、陳君を尊い科学の犠牲に供したいとねがうのだ。人命を勝手に科学実験に利用するのは罪悪だが、しかし、科学者の真剣さも買ってやらねばならない。
「もし、わしの実験が失敗して、おまえが、そのまま生き還ることがなかったら、わしも、責任を負うて、この甲板で、おまえのあとを追って死ぬ。わし一人が、おめおめと生き永《ながら》えはせぬぞ。わしに見込まれて、不幸だとあきらめてくれ」
「わかりました。僕が学問の犠牲に、よろこんで成りましょう」
「おお、よく理解してくれた。それでこそ、わしの見込んだ少年だった」
 怪老人は、手を伸して、陳君の手を握り締めた。

   四 幽霊船と幽霊船

 物語は、再び運命の方船《はこぶね》に戻る。
 人造島が、海洋の真ん中で、みごとに溶けて、白堊《はくあ》の建物が、運命の方船として、波間にうかび上ってから、はや二月は経った。方船は、島の上に建っていた建物だから、普通の船のようなわけにはいかない。その半身以上を海に没し、建物の中も海水で充満している。まるで難破した水船《みずぶね》だ。
 人々は、方船の屋根に取《とり》すがって、波を避けているに過ぎなく、雨露を凌《しの》ぐことさえ出来ず、食料も、飲料水も、十分に用意することが出来なかったので、二月の漂流で、すでに、それらのものも尽きてしまった。はじめ二十余人もいたが、二月ののちには、数人より残らなかった。波にさらわれて姿を消した者、食料が尽きて餓死した者、運命を呪《のろ》って、みずから海に投じて死んだ者……。生残《いきのこ》った者といえども、今では、死人も同様だ。
 生残った数人のうちでは、僕は一番元気だった。若いせいもあるが、日本人の頑張りから、歯を喰《く》いしばって今日まで生きて来たのだ。
 僕のほかに、数人の技術員が、まだ生残っているが、もう明日にも、方船から辷《すべ》り落ちて、海底へ沈んでゆくかも知れない。それほど、力弱っている。一番元気なのは僕だが、一番弱っているのは、老博士だ。博士は、漂流中に真先にまいってしまったが、僕は、身命を賭《と》して、老博士の身を護《まも》っているので、きょうまで生きて来たのである。
「山路君……わしはもう駄目じゃ。極度の疲労で、はやく死にたい」老博士は、こう哀《かな》しく叫んだ。
「いけません。元気を出しなさい。僕がついていますよ」
「いや、わしのような老体を、かばっていては、君も死んでしまう。わしにかまわずに、君はあくまでも生きてくれ」
「いや、博士が死ねば、僕も死にます。人造島で約束したじゃありませんか。死ぬときは、一緒に……と」
「なるほど、その約束を忘れず、わしをかばってくれるのか、ありがたい。わしは、日本人の仁侠《にんきょう》の精神に涙ぐまれる」
「そんなことはありません。僕は、あなたの科学の才能を、もっと、世界人類のために働かしてもらいたいとねがうのです。そのために、懸命に、あなたをたすけているのです」
「ありがとう、ありがとう。わしは、きっと、生き抜いてみせる」
 大浪《おおなみ》がくるたびに、方船《はこぶね》は、顛覆《てんぷく》しそうになる。
 嵐に吹きつけられて、方船はほとんど浪に没することさえあった。
 何よりも苦痛なのは、暴風雨に見舞われることだ。天蓋《てんがい》のない建物の屋根の上に、わずかに取《とり》すがっている僕等だから、豪雨には徹底的に叩《たた》きつけられる。が、この豪雨は、また漂流者にとって天の恵みでもあった。屋根の窪《くぼ》みなどに、雨水が溜《たま》るからだ。僕等は、それによって、渇《かつ》を医《い》やすことができ、雨水を呑んで、わずかに飢えを凌《しの》ぐのだった。
 ときには、晴れた、気持のよい日和《ひより》もあった。海洋は浅みどりに輝き、浪もおだやかで、方船の動揺も殆《ほとん》どなかった。こういう時に、僕は自分のきているジャケツの毛糸を解き、その毛糸を幾本かあつめて撚糸《よりいと》にし、また、屋根板から一本の釘《くぎ》を抜取って、これを曲げて釣針をつくって釣りをした。
 はじめ、餌《え》の代りに、靴底の革を切って釣針につけて、海に投げてやると、またたくまに、一尾の大きな魚が釣れた。その魚の肉を餌にして、さらにカメアジや、鮫《さめ》や、阿呆鳥《あほうどり》を釣り上げた。
 阿呆鳥を釣るには、小さな板のうえに、餌のついた釣針を乗せて、浪の上に流してやると、阿呆鳥は、それに食付《くいつ》いてくる。それを釣るのだ。
 天気の好《よ》い日は、老博士も、死人のような生残者たちも、僕から釣道具を借りて、釣りに興ずるのだった。嵐のあとの晴れた朝だった。
 大きなうねりに乗り、うねりに沈んで、方船は、木の葉のように漂うているとき、一人が、海洋の彼方《かなた》を遠望しながら、とつぜん叫んだ。
「おお、……島だ。島だ」この声は、人々に活気を与えた。なるほど、水平線の彼方に、一点の黒影がうかんでいる。
「無人島かしら」僕は、好奇の眼を見はった。
「珊瑚礁《さんごしょう》だったら、つまらないなア」
 誰かが、力ない声で呟いた。
「パーム・パームリック圏内に迷い込んだのではあるまいかな」これは、博士だった。
「パーム・パームリックというのは、何ですか」
「南海の魔の海だ。珊瑚礁が群生して、おまけに潮流の渦巻く、おそろしい死の海ともいわれるところじゃ」
 人々は、これをきくと、おもわず顔を見合った。
「あっ! 島が動く」誰かが、また叫んだ。
「えッ! 島が動く?」冗談じゃない。人造島ではあるまいし、島が動いてたまるものかとおもったが、なるほど、黒い影がたしかに動いて、だんだんこちらへ近づいてくるではないか。
「おお、船だ。島じゃない、黒船だ」
 老博士は、さすがに、哀《かな》しげに叫んだ。
 方船と、黒船とは、次第にその距離を短縮しつつある。
「妙な船ですね」
「難破船かも知れない」
 僕と、老博士は、囁《ささや》き合った。だが、難破船にしては、船体がガッチリしている。太い烟突《えんとつ》から、黒煙を吐いてはいないが、まさか、面白《おもしろ》半分に海洋を流されているのでもあるまい。しかも近づいてくるにしたがって、いよいよ不気味に感じられる。
「幽霊船だ」誰かがまた、恐怖に顫《ふる》えた声で叫んだ。
「幽霊船?」僕は、おもわず聞き返した。
「難破船の乗組員が、みんな死んで、その亡霊が船を動かしているということを、物語にきいたが、あの船は、それにちがいない」
「それは、船乗たちの迷信さ」
 老博士は、一笑に附したが、
「博士、ひょっとすると、幽霊船かもしれませんよ」
「ハハハハハハハ。君までが、……」
 そういううちにも、死の船、――幽霊船は、意識してか、だんだんと方船《はこぶね》の方へ近づいて来る。
 おお、死の船? 恐怖の船?……
 船と船とが、すれ違いになったとき、方船は黒船の舷側《げんそく》にぴったりと吸付いてしまった。いや、吸付いたとみたのは、汐《しお》のために、舷々《げんげん》相《あい》摩《ま》したのだ。方船の生残者たちは、
「あッ!」と一斉に叫んで、身を避けようとしたので、方船は一方に傾いて、危うく顛覆しそうだった。
 僕は、恐怖と好奇の眼で、幽霊船の甲板を見上げた。それは僕がかつて恐ろしい目にあった虎丸《タイガーまる》だ。約三ヶ月目で相《あい》会《かい》したどろぼう[#「どろぼう」に傍点]船だが、もう舷側にはカキ殻が夥《おびただ》しく附着し、甲板には人影もなく、船体から烈しい臭気が発散している。「博士、死の船です。幽霊船です。甲板から不気味な妖気《ようき》が立っています」
「うむ」と、老博士も好奇の眼を上げた。
「君たちはどうだ。幽霊船を探ってみないか」僕は、生残った技術員たちに呼びかけたが、彼等は、
「いや、真ッ平だ」
「あんな船に乗移ると、生命が奪われる」
と、口々に呟いて、顫《ふる》えている。
「なんだ、意気地《いくじ》なし」
 僕は、虎丸の舷側に垂れ下っている、タラップの端をつかんで、足をかけ、猿のように甲板へ登って往った。老博士はと、振《ふり》かえると、かれもまた勇敢に、タラップを登ってくる。中甲板には、五つの屍骸《しがい》が、ごろごろしていた。
「あッ!」あまりの恐ろしさに、おもわず叫んだ。
「博士! あの生々しい屍骸をごらんなさい」
「なるほど、三ヶ月も経過して、生々しい屍骸が横《よこた》わっているとは奇怪だ。まさしく幽霊船かな」
「博士、あれに倒れているのは、安南人《あんなんじん》の大男です。ごらんなさい。その男の胸が抉《えぐ》られています」
「なるほど、……惨酷《ざんこく》なことをしたものだな。亡霊の仕業かな」
「あッ! 博士。僕の味方が、やっぱり倒れています。船長附のボーイ、陳《チャン》君です」
「おお、あの少年が、陳君というボーイかい。無惨《むざん》な屍骸となって横たわっているではないか」
 僕はつかつかと駈《か》けて往って、陳君の屍骸を抱き起そうとすると、突然、どこからか
「待て、その屍骸に触れてはならぬぞ」不気味な声。
 僕は、おどろいて振かえると、いつのまにか、僕の背後に、白衣の白髪の怪老人が立っていて、右の人差指を突付け、物凄《ものすご》く、歯のない口をあけて笑った。
「あッ、おまえは、亡霊だな」立ち上って、身構えた。
「ハハハハハ。亡霊を退治に来たというのかい。なるほど、それもよかろ。……だが、その少年の屍骸《しがい》に触れてもらいたくはない」
「何故《なぜ》だ」
「おまえの味方だが、また、わしの愛するモルモットじゃ。一指《いっし》も触れてはならぬぞ」
「黙れ、亡霊!」
「いや、わしの実験の済むまでは、一指も触れてはならぬのじゃ。強いて、屍骸に近寄ろうというのならば、おまえも、屍骸にしてやろう」
「…………」不気味なその一言に、ぎゃふんと参ってしまった。老博士は、二、三歩、怪老人の方へ進み寄り、
「実験といったね。何の実験かね」
「つまり、科学の実験なのじゃ」
「えッ! 科学」
「そうじゃ。亡霊が、死の船の甲板で、科学の実験をするとは、奇怪だとおもうだろう。わしは生きた人間を料理する科学者だが、みだりに生きた人間を取扱うと、陸では、法律上の罪人となるからのう」
「なるほど」
 老博士は、更に二、三歩、前へ進んだ。怪老人は、ガラスのような眼で、相手を見て、
「そこで、わしは、実験室を、北洋のどろぼう[#「どろぼう」に傍点]船に選んだのじゃ。わしは、船医に化けて、この虎丸《タイガーまる》に雇われ、横浜から乗船した。そして、生体解剖《せいたいかいぼう》の実験の機会《チャンス》を狙《ねら》っていたのじゃ。するうち、それにいるボーイたちが、わし
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