う、これは、台無しだ」
 二つの心臓を両手に持って、やや暫《しばら》く眺めていたが、銃弾に砕かれた陳君の心臓を、ひょいと海へ投げすてて、大男の心臓を、ていねいに消毒して、陳君の左胸部の穴へ押込んだ。
 怪老人は、大男の心臓を、陳君の左胸部へ移し植え、血管をつぎ合したり、収斂《しゅうれん》、止血剤を施したり、大童《おおわらわ》になって仕事をつづけたが、やがて、左胸部の創《きず》を縫合せてしまうと、ほっと一息入れ、
「もうこれでよし」と、自信ありげに、独《ひと》り呟《つぶや》いた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋《はくろう》のような顔に、一抹《いちまつ》の血がのぼると、
「う……」と、呻《うめ》きだし、微《かす》かに身動きした。
「おお、やっと生きかえったかな。わしの大手術の成功じゃ」怪老人は、陳君の屍骸の手を執って、脈搏《みゃくはく》を数えはじめた。
 船長室のベッドに寝かされてから、やっと、陳君は、我にかえった。
「はてな、僕は生きていたのかしら」
 ふしぎで堪らない。豹のような水夫に背後からピストルを射《う》たれ、左胸部を貫通され、ばったり甲板に斃《たお》れたはずの自分が、船長室のベッドのうえで、意識を取返すなんか、有りうべからざることだ。
 夢ではないかとおもったが、夢ではない証拠に、左胸部の創《きず》が、烈《はげ》しく痛んでいる。咽喉《のど》が渇いて、相当に高熱だ。
「奇蹟《きせき》だ!」陳君は、おもわず呟くと、
「いや、奇蹟ではない。科学の勝利じゃ」
 と、応えるものがあった。顔をあげてみると、ベッドの傍《そば》で白衣《びゃくえ》白髪の怪老人が葉巻をくわえながら、薄笑《うすわらい》をうかべている。
「あッ!」
「驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ……」
「あなたは、何処《どこ》から来たのです?」
「わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう[#「どろぼう」に傍点]船の船医じゃ」
「山路君は?」
「わしに怖《おそ》れて、海へ飛込んで死んだよ」
「えッ! では、豹《ひょう》のような水夫は? 僕をピストルで射殺したあの水夫は……」
「あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、鱶《ふか》の餌食《えじき》になったことだろう」
「では、もうこの船には?」
「そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ」
「僕は、ほんとうに生きているのですか」
「ハ……。疑うのも無理はない。心臓を射貫かれ、死んだはずのおまえが、そこに生きているのだからなア……」
「誰が、僕を生《い》かしてくれたのです」
「生かしてもらって、不服かな」
「いいえ、感謝します」
「生かしてあげたのはわしだが、わしに感謝するより、科学の偉力そのものに感謝したがいい」
「あなたは、僕の胸を手術してくれたのですか」
「そうじゃ。おまえの、砕かれた心臓を、海へすて、あの大男の安南人《あんなんじん》の心臓を、移植してやったのさ。おまえの心臓は、あの大男から貰《もら》ったのじゃ」
「えッ! それじゃ、僕のこの心臓は、安南人《あんなんじん》の心臓なのですか」
「不満かな……。いや、不満とは云わさんぞ。犬の心臓と取替えたのではないからのう。ハ……」
「あなたは、死んだ人間を、勝手に生かすことが出来るのですね」
「そうじゃ。死んだ人間を生かすことが出来るが、生きた人間を殺しはせん。わしは、本国ドイツにいたころから、心臓移植の実験を、しばしば動物によって試みたものだが、人間を試みたのが、こんどが初めだったのさ」
「心臓移植は、あなたが初めて試みられたのですか」
「まず、そうじゃ。しかし、一九三三年に、ポロニーという学者が、一女性の腎臓を摘出して、新しい屍体《したい》の腎臓を移植して、毒死の危急を救ったことがある。いや、その翌年には、フイラトフという学者が、新しい屍体の眼球を摘出して、十一年間も失明していたある女に移植して成功したという事実もあるのじゃから、わしの心臓移植も、けっして珍しい手術ではあるまい」
「でも、奇蹟《きせき》です。そして、神の業です」
「おだてるなよ、わしは、奇蹟を信じない科学者だからのう。ハ……」

     亡霊か悪魔か

 怪老人は、妙技を揮《ふる》って屍体を生きかえらせ、船中には、生きた人間が二人になったが、どろぼう[#「どろぼう」に傍点]船|虎丸《タイガーまる》の船内には、依然として、不気味な空気が漂うている。中甲板には、なおも、四つの屍体が横《よこた》えられたままだ。なぜ、怪老人は、四つの屍体を、海へすてないのか。五日を過ぎ、十日と経《た》っても、屍体の処分をしない。
 で、鬼気が身に迫るようだ。胸の創《きず》が癒《い》えて、甲板を散歩することがゆるされた陳《チャン》君は、中甲板で、四つの屍体を発見して、ぞっとした。
「どうして、屍体をすてないのですか」
 老人は、にやり笑って、
「いや。まだすてるには惜しいよ」
「また、実験に使うためですか」
「そうかも知れん。ことによったら、おまえの肉体も、必要になるか知れんよ」
「えッ!」
「驚いてはいけない。わしは、大男の心臓を、おまえに移植したのは、おまえをこの世に還《かえ》したいためではなかった。わしの学説の実験に使うためだ。だから、必要になれば、いつでも、おまえの肉体を貰《もら》うまでさ」
「あなたは、生きた人間を殺さぬと、仰《おっ》しゃったではありませんか」
「そうじゃ、わしは、生きた人間を殺さぬ。そんな殺生《せっしょう》はせぬ」
「でも、僕をまた、殺すつもりでしょう」
「いや、誤解してはいけない。わしは、死んだおまえを、元通りに死なしてやるまでさ。けっして、死んだ人間を生かしたままにはせぬよ」
「…………」陳君は、怪老人の不気味な一言に、ぞッと身顫《みぶる》いして後退《あとじさ》りした。老人は、自ら亡霊ではないと云ったが、血の通った人間とは信じられない。人間の心臓を勝手に取替えたり、屍骸《しがい》に息を吹き込んで、また元通り屍骸にしてしまうなぞ、亡霊でなければ、悪魔の仕業だ。
「油断がならぬぞ」陳《チャン》君は警戒しはじめた。虎丸《タイガーまる》は、心臓を失い、両足を失って相変らず、幽霊のように、名も知らぬ海洋をひょうひょうと漂流している。
「戦おうか」だが、仮にも、怪老人は、自分にとっては生命《いのち》の恩人だ。他人の心臓を取って、移し植え、血の通う人間にしてくれた恩人だ。たとえ、亡霊でも、悪魔でも、ふたたび自分に魔の手を伸し、心臓を抉《えぐ》り取ろうとするまでは、こちらから手出しはできないとおもった。
 真夜中ごろ、人の気配を感じてふと眼が醒《さ》めた。
「誰だ!」低く、しかも力の罩《こも》った声で叫んで、半身を起し、四辺《あたり》をみると、白衣の怪老人が片手にメスを握り、そっと、陳君の眠っているベッドに近づいて来たのだ。
「何をするのです」怪老人は、不気味に笑って、
「わしはまた、人間の肉を裂きたくなったのさ」
「えッ! では、僕の心臓を、また抉り取ろうというのですか」
「いや、心臓が欲しいのではない。その二つの眼じゃ」
「えッ!」怪老人は、一歩一歩近づいてきて、
「おまえの、美しい、若々しい眼と、このわしの老《おい》ぼれた、ガラスのような眼と、取替えて見ようというまでさ。フイラトフ博士は、新しい屍体《したい》の眼球を取り出して、十一年間も失明していた女の眼に移し植えて成功した。生きた、おまえの眼球を、わしに移し植えたら、わしは、急に若返るだろう」
「飛《と》んでもない。そんな、ガラスのような眼は、真ッ平です」陳君は、ベッドを辷《すべ》り落ちて、逃げ仕度をはじめた。老人は、じわじわと近寄って来て、
「いや、遠慮せずともよい。中国民族の眼と、ドイツ民族の眼と入替えてみるのじゃ。おまえは、この、碧《あお》い眼が欲しくはないか」
「真ッ平です」船室をのがれようとすると、右手を伸して肩先をつかんだ。
「おまえは、また、わしを信じないのか。わしは、学術研究のために、おまえを試験台とするのだ。コマ切れにして、煮て食おうというのではないから、安心して、わしに料理されるがいい」
「試験台にされて堪《たま》るものですか。僕は、あんたの奴隷ではありません」
 陳君は、怪老人の手を振り切って、船室を逃れ出た。いっさんに中甲板まで駈《か》け上って、ほっとすると、あとから、老人の、不気味な声が、
「こら、遠慮するなよ、わしの、この碧い、宝石のような眼を、おまえに与えるというのじゃ、その東洋人の、汚らしい眼と、取替えて見よう」
 陳君は、それには応えず、後甲板の方へ逃げた。
「こら、小僧、待たぬか」
 怪老人は、あくまで執拗《しつよう》に追《おい》かけてくる。舷灯の無い、暗い甲板だが、星の光で、四辺《あたり》の様子がうかがわれる。物かげに身を潜めていると、怪老人は、よろよろと後甲板へやって来た。
「小僧、どこに居る?……。わしの、自由になってくれ。科学のためじゃ。わしの学説を完成させる、最後の試験台だ。わしのために、犠牲になってくれ」怪老人は、後甲板の彼方此方《かなたこなた》を、探し廻っている。物かげに身を潜めている陳君は、このとき、全身の血のたぎるのを感じ、荒々しい息遣いになって来た。彼の足は、力強く、物かげを出て往く。そして、よろよろ四辺を探し廻る老人の前に、立塞《たちふさが》った。
「さあ、じいさん。僕を自由にできたらやって見給え。僕の心臓は、安南人《あんなんじん》の巨《おお》きな心臓だ。僕の鉄腕は、戦いを要求している。この後甲板で、どっちが勝つか、一騎打ちの勝負をしよう」
 振《ふり》かえった怪老人は、急に、会心の笑いをもらした。
「ハハハ。それだ、わしの求めていたことは」
「え!」
「つまり、わしは、心臓は、動物の生命の原動力であるかどうかを実験したのじゃ。小僧、おまえの小さな心臓の代りに、あの安南人の大きな心臓を移し替えてみると、わしの学説のとおり、おまえは、あの大きな安南人のように、勇敢に、力強くなったじゃないか。ハハハハハ。もうそれでよい。わしと妥協しよう」
「それじゃ、いまのは嘘《うそ》ですか。眼球を取替ようというのは」
「嘘ではないが、しばらく中止さ。ハハ……」
 それから、二月は無事に過ぎた。
 怪老人は、ふたたびメスを揮《ふる》おうとはせぬ。が、油断はならない。隙《すき》をうかがってまた、奇怪な解剖をやらぬともかぎらぬ。陳《チャン》君は、それで、夜もろくに眠らず警戒しつづけた。
 幽霊船は、長い漂流をつづけているうち、次第に南海の方へ進んでいるようだ。北洋で見うけた、氷の砕片や、寒流特有の海の色は、いつか消えて、暖かい風が甲板を吹いていたが、このごろでは、むしろ、熱風が肌に感じられるようになり、椰子《やし》の実が、ひょうひょうと波にうかんでいるのを見うける。
 南海に流れてくるうちに、船底の冷凍室の紅鮭《べにざけ》やオットセイが、腐敗しはじめた。急速度に腐敗し、臭気は、船底一杯に充満し、船室に居られなくなった。それで、二人は、夜も、甲板で眠ることにした。
「困った。飲料水が腐りかけましたよ」
 陳君は、不安の面持《おももち》でいうと、怪老人は、
「なアに、海水を呑《の》むさ」一向平気である。
「海水なぞ、呑めやしないじゃありませんか」
「心配することはない。わしが、海水から塩分を取りのぞいて、旨《うま》い飲料水をつくってやる……それよりかどうだ、小僧。冷凍室のものが腐り、飲料水まで腐りかけたというのに、中甲板にころがっている四つの屍骸《しがい》が、少しも腐敗せんじゃないか」
「なるほど、妙ですね」
「妙ではない、当然のことなのだ。わしの創案した防腐剤の偉力は、このとおりじゃ。何なら、おまえにも、防腐剤を注射してやろうか」
「え!」
「生きながら、偉効《いこう》のある防腐剤を注射すると、おまえの肉体は、永遠に死なぬぞ」
「冗談じゃありません。防腐剤は、死んでからねがいます」
「ところが、わしは、生きた人間に、それを試みたいのじゃ。小僧、おまえの肉
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