よりもはるかに心持よく、自分は気が清々《せいせい》として来た。自分は弓杖《ゆんづえ》を突いて……というのも凄《すさ》まじいがいわゆる弓杖を突いて、あたりに敵もいないのに、立木を敵と見廻してきっとして威張ッていた。突然二ツの影法師が自分の頭上を越えて目の前に現われた,自分はふり返ッて娘と姉とを見た。
娘は足を止めて、感心に御精が出ますこと、と賞めそうな風でにっこりして清《すず》しい目を自分に注いでいた,自分は目礼をして、弓を投げ棄てて姉の傍へ往ッた。
「大層御精が出ますことねエ」はたして娘が賞めた。
「どうしてあなた。叱《しか》られてばかりいます、精を出しませんから」
娘がせっかく賞めたものを、姉がよけいな口をさし入れた、自分は不平に思ッた,しかし姉はさすがに姉で、情のあッたもので、弟の賞められたのが嬉しかッたと見えて、にっこりして,「それでもあなた、出来ないくせに大変に好きで」というのを枕《まくら》に置いて自分を賞め始めた,前の言葉とは矛盾したが、そこが女の癖で、頓着《とんじゃく》はなかッた。自分が幾歳《いくつ》の時四書をあげて、幾歳の時五経をあげて、馬をよく乗ッて、剣術が好きで、鎗がどうで、弓がこうでと、姉が自分のことを賞めたてるのを、娘は笑いながら自分の方を見つめて、その話を聴いていたが、聴き終ッてから、
「ほんとうに感心ですねエ、お少《ちい》さいのに」
この一言は心から出たので,自分は賞められて嬉しく思ッた,的の黒星を射抜いて、えらいと人に賞められたよりは、この人に賞められたのを嬉しいと思ッた。
「庭の方へ往ッて見ましょう。秀さんもおいで」
姉と娘との間に立ッて、自分は外庭の方へ廻ッて往ッたが、見つけた、向うの垣根《かきね》の下に露を含んで、さも美しく、旭光《あさひ》に映じて咲いていた卯《う》の花を見つけた。
「お姉さま、お姉さま、江戸のお姉さま! 御覧なさい。この花はね私が植えたのですぜ,植えたてには枯れかかッたけれど、やッと骨折ッて育てたのです。奇麗でしょう?」
「おやまア奇麗! 花もお好きなの? 武芸もお好き?」と言ッて白い手を軽く自分の肩へ掛けて、ちょっと揺すッてそして頭を撫でたが、不思議にも、その手が触《さわ》ると自分の胸はさわぎ出した、がそれを見られまいと急いで、
「花は白い方が奇麗ですねエ、赤ッぽいのよりか」
「そうですね、淡白《あッさり》していて。赤いのはなぜおきらい?」
「なぜッて? 赤いなア平家の旗色で、白いなア源氏ですもの,源氏の方が強いから、だから……」
愚にも附かぬことを言いながら、内庭と外庭の間の枝折戸《しおりど》の辺まで近づいた。と見ると花壇に五六本の白牡丹《はくぼたん》が今を盛りと咲いていた,その花の下に飼猫の「コロ」が朝日を一杯背中に受けて、つくねんとうずくまッていた「日向《ひなた》ぼこりをしているのか、居睡りをしているのか?「牡丹花下の睡猫《すいみょう》は心|舞蝶《ぶちょう》にあり」という油断のならぬ猫の空睡《そらね》,ここへ花の露を慕ッて翩々《へんぺん》と蝶が飛んで来たが、やがて翼《はがい》を花に休めて、露に心を奪われて余念もない様子であッた。油断を見すました大敵、しかし憎げのないひょうきん者め、前足を縮めて身構えをしたが、そら、飛びかかッた,蝶は飛び退いたが、あわてて、狼狽《まごつい》て、地下《じびた》をひらひらと飛び廻わッていた,が、あわや「コロ」の爪にかかりそうになッた。
「あらまア! あんないたずらを」と娘は走《は》せよッて、
「およし可哀そうに」
娘はしなやかに身を屈《かが》めて、「コロ」を押えながら蝶を逃がした。それから「コロ」を抱きあげてそしてやさしい手でくるくると「コロ」の頭《かしら》を撫でまわした,「コロ」は叱られたと思ッたか、目を閉じ、身を縮め、首をすぼめて小さくなッたその風の可愛らしさ,娘はその身の貌《かお》を「コロ」の貌から二三寸離して、しけしけと見ていたが、その清《すず》しい目の中にはどんなに優しい情が籠《こも》ッていたろう。「もう虫なんかを捕るのではないよ」と言ッて、その美しい薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》を猫の額へ押し当て、真珠のような美しい歯を現わしてゆッたりと微笑《わら》ッたが、そのにっこりした風はどんなにあどけなく、どんなに可愛らしい風であッたろう! 自分は猫を羨《うらや》ましく思ッて余念なく見とれていた。娘は頬の辺にまだ微笑《わらい》のほのめいている貌をちょいとふり上げて自分の貌を見たが、その笑い貌の中には、「なぜそんなに人の貌を見て」と尋ねるような風があッたので、あるいはなかッたかも知れぬが、自分はあッたように思ッたので、はッと貌を赤らめて、あわてて裏庭へ逃げ出してしまッた,が恥かしいような、嬉しいような、妙な感情《かんじ》が心に起
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