ッて何となく胸が騒がれた。
その日の七ツ下りに自分は馬の稽古から帰ッて来て、またいつものように娘のいる座敷へ往ッて見ようと思ッたが、はてまア不思議! 恥かしいような怖いような気がして、往きたくもあるが往きたくもなく、どうしたものかと迷い出して、男らしくないと癇癪《かんしゃく》を起して、そこで往くまいと決心して誓いまで立てたが,さて人情は妙なもので、とんと誰か来て引っ張るようで、自然と自分の体が動き出して、知らぬ間に娘のいる座敷の前まで来た。唐紙《からかみ》は開いていた,自分は座敷の方を向きもしなかッたが、それでいて、もウ娘が自分を見たなと知ッていたので,わざと用ありそうに早足で前を通り過ぎ、そのくせ隣座敷の縁側で立ち止まッて、柱へつかまッて庭を見ていた。すると娘のいる座敷で誰か立ち上るような音がしたが、すぐその音が近づいて来た、自分の胸はときめいた,注意はもウその音一ツに集まッてしまッて心は目の前にその人の像《かたち》を描いていた,その人の像はありありと目の前に見えるのに、その人は自分の背《うしろ》へ立ッて、いたずらな、自分の頸毛《ちりげ》を引ッ張ッて,
「秀さん、いい物をあげるからいらッしゃい」
「いい物?」いい物とは嬉しい、と思いながら、嬉しさにほとんど夢中となり、後に続いて座敷へはいると紙へくるんだ物をくれた,開けて見るとあたり前の菓子が嬉しい人から貰《もら》ッた物、馬鹿なことさ、何となく尊く思われた,破《こわ》さないように、丁寧に、そっと撫でるように紙へくるんで袂《たもと》へしまうのを、娘はじッと見ていたがにッこりして,
「秀さんいい物を拵《こし》らえて上げましょう」
「どうぞ」
娘は幾枚となく半紙をとり出して、
「そらようございますか、これが何になるとお思いなさる,これがね」ゆッたりした調子で話し始めた。「――これは、そらね、これをこう折ッて、ここをこうすると、そうら、一つの鶴《つる》が出来ますよ、そら今出来ますよ、そうら出来た」
娘は鶴を折るとそれから舟、香箱、菊皿《きくざら》、三方《さんぼう》などを折ッてくれた。自分は娘が下を向いて折物に気を取られている間、その雪のような白い頸《えり》、その艶々《つやつや》とした緑の黒髪、その細い、愛らしい、奇麗な指、その美しい花のような姿に見とれて、その袖のうつり香に撲《う》たれて、何もかも忘れてしまい、ただもウうッとりとして、嬉しさの余り手を叩《たた》きたいほどであッた。
「お姉さま、折方を教えて下さいな」
それから自分は折方を習ッて、二三度試して見たが出来なかッたので、娘は「ほんとうにこの子は不器用な人だ」と笑いながら、いやというほど自分の手を打ッた,痛かッた、痛さが手の筋へ染《し》み渡ッた,が痛さと一しょに嬉しさも身に染み渡ッた,嬉しいから痛いのか、痛いから嬉しいのか? 恐らく痛いから嬉しいので……まアどうでもいいとして、痛さが消えぬように打たれたところをそっと撫でた。
ここへ姉がはいッて来て、
「秀さん何をしておいでだ」
娘はにっこりして姉に向い、
「どうもこの子は不器用でいけません」
「こんなものは出来なくッてもいいや」
「出来なくッてよければ、なぜ教えてくれと言いました? わがままッ子め!」
娘は口元で笑いながら額越しに睨《にら》む真似をした,自分はわがまま子と言われるのよりは、何とかほかの名を附けてもらいたかッた。
その夜のことで、まだ暮れてから間もないころ自分は何の気もなしに、祖母の室へ遊びに往ッた、すると祖母を始めとして両親もおれば叔父も娘もいて何か話していたが,自分を見ると父が眉に皺《しわ》を寄せて,「あちらへ往ッておいで。子供の聞くような話ではない」ときっとして言ッた,が自分はこの場の様子を怪しんで、物珍らしい心から出るのを少し躊躇《ちゅうちょ》していると,娘が貌をふり上げて清《すず》しい目で自分を見た、その目の中には、「早く出て往ッて……」というような風があッた。ちょっと見た娘の一目は儼然《げんぜん》として言われた父の厳命より剛勢だ、自分は娘の意に従いすぐに室を出たが、それでも今室へはいッた時ちらりと皆《みんな》の風が目に止ッた。父は叔父に向ッて、「さようさ、若年にしてはなかなか感心な人で」などと話していた,また娘は下を向いて膝《ひざ》を撫でていると、祖母と母とが左右からその貌を覗《のぞ》き込んで、何をか小声でたずねていた。自分は室を出てから、何を皆は話しているのか、なぜまた自分がいてはわるいのか? と思ッたが、なアに、思い込んだのではない、ほんの目の前を横ぎる煙草の煙《けぶり》、瞬《めばた》きを一ツしたらすぐ消えてしまッた。
元来この日は、自分は何となく嬉しくいそいそとしていた、しかし何ゆえ嬉しかッたのかその理は知らなかッた、が何がな
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