しに嬉しかッたので臥床《ふしど》へはいッてからも何となく眠《ね》るのが厭《いや》で、何となく待たるるものがあるような気がするので、そのくせその待たるるものはと質《ただ》されるとなに、何もないので、何もないと知ッているが、そこが妙なわけで,夢現《ゆめうつつ》の間でたしかあるように思ッているので、どうも臥《ね》るのが厭であッた,それゆえ床の上に坐ッていると、そら、娘の姿がちらちら目の前に現われて来た。にっこりと笑いながら自分の手を打ッた時の貌、その目元、口元で笑いながら額越しに睨んだ貌、そのりきんだ目つき、まア何よりもその美しい姿容《すがたかたち》が目の前にちらちらし始めた。自分は思い出し笑いをしながら、息も静かにして、その姿が逃げて往かぬようと、荒く身動きもせず、そろそろ夜具の中へもぐり込んで、昼間打たれた手のところをそっと頬の下へ当てがッて、そのまま横になッたが,いつ眠ッたかそれも知らず心地《こころもち》よく眠入《ねい》ッてしまッた。
自分はこの時からというものは娘の貌を見ている間、その声を聞いている間、誠に嬉しくまた楽しく、ついうからうからと夢の間に時を過していた。こうはいうものの娘がいないとて、夢いささかふさぐなぞということはなかッた。何を言ッても自分はまだ十四の少年,自分と娘とは年がどれほど違ッていて、娘は自分より幾歳《いくつ》の姉で、自分は娘の前では小児であるということ,また娘はただ一時の逗留客《とうりゅうきゃく》で日ならずこの土地を去る人ということ,自分は娘を愛しているのか、はたまた娘は自分を愛していないのかということ,すべてこれらのことは露ほども考えず、ただ現在の喜びに気を取られて、それを楽しいことに思ッていた,がその喜びは煙のごとく、霧のごとく、霞《かすみ》のごとくに思われたので、どうかすると悲しくなッて来て、時々泣き出したこともあッたが,なに、それだとて暫時《ざんじ》の間で、すぐまた飛んだり躍《は》ねたりして、夜も相変らずよく眠《ねぶ》ッた。
叔父はわずかに一週《ひとめぐ》りの休暇を賜わッて来たので、一週りの時日はほんの夢の間のようであッた。もウ明日一日となッて、自分は娘にも別かれなければならぬかと、何となく名残り惜しく思ッたが、幸い叔父が三日の追願《おいねが》いをしたので、なお二三日はこちらに滞留していることとなッた。しかるにその夜のことで母と祖母との間に誠に嬉しい話が始まッた,それを何かというとこうで,もウ二三日過ぎると叔父も江戸へ帰るにより、何か江戸|土産《みやげ》になりそうな、珍らしい面白い遊戯《あそび》を娘にさせて帰したい,が何がよかろうと二人が相談を始めた。しかし面白い遊びといッたところがこの草深い田舎では,五節句、七夕《たなばた》、天皇祭でなくば茸狩《たけが》り蕨採《わらびと》り、まアこんなもので,それを除いては別段これぞという遊びもない,けれども今は四月二十日、節句でもなければ祭でもない、遊戯と言ッては蕨採りのみだ、蕨採りと言ッたところがさのみ面白い遊戯でもない,が摺鉢《すりばち》のような小天地で育ッている見聞きの狭い田舎の小児《こども》には、それが大した遊戯なので,また江戸のような繁華な都に住んでいて野山を珍らしく思う人にはやはり面白い遊戯なので,それゆえいよいよ蕨採りに往くことと極まり、そのことを知らせた時には一同|歓喜《よろこび》の声を上げた。
さてその夜は明日を楽しみにおのおの臥床《ねどこ》にはいッたが、夏の始めとて夜の短さ、間もなく東が白んで夜が明けた。
その日の四ツごろようように仕度《したく》が出来て、城下を去ること半里《はんみち》ばかりの長井戸の森をさして出かけた,同勢は母と、姉と、娘と、自分と、女中二人に下部《しもべ》一人、都合七人であッたところへ、例の勘左衛門が来合わせて、私もお伴をと加わッたので,合わせて八人となり、賑《にぎ》やかになッて出かけた。
家敷《やしき》の? 郭《くるわ》を出て城下の町を離れると、俗に千間土堤《せんげんどて》という堤へ出たが,この堤は夏|刀根川《とねがわ》の水が溢《あふ》れ出る時、それをくい止めて万頃《ばんけい》の田圃《たはた》の防ぎとなり、幾千軒の農家の命と頼む堤であるから、随分大きなものである,堤の上ばかりでも広いところはその幅十間からある、上から下へ下りるには一町余も歩かねば平地にはならぬ、まア随分大きな堤だ。堤の両側は平《ひら》一面の草原で、その草の青々とした間からすみれ、蒲公英《たんぽぽ》、蓮華草《れんげそう》などの花が春風にほらほら首をふッていると、それを面白がッてだか、蝶が翩々《へんぺん》と飛んでいる。右手はただもウ田畑ばかり,こッちの方には小豆《ささげ》の葉の青い間から白い花が、ちらちら人を招いていると,あちらには麦畑の蒼海
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