《そうかい》が風に波立ッているところで、鳴子《なるこ》を馬鹿にした群雀《むらすずめ》が案山子《かかし》の周囲《まわり》を飛び廻ッて、辛苦の粒々を掘《ほじ》っている,遠くには森がちらほら散ッて見えるが、その蔭から農家の屋根が静かに野良を眺《なが》めている,蛇《へび》のようなる畑中の小径《こみち》、里人の往来、小車《おぐるま》のつづくの、田草を採る村の娘、稗《ひえ》を蒔《ま》く男、釣《つり》をする老翁、犬を打つ童《わらべ》、左に流れる刀根川の水、前に聳《そび》える筑波山《つくばやま》、北に盆石のごとく見える妙義山、隣に重なッて見える榛名《はるな》、日光、これらはすべて画中の景色だ。鄙《いなか》の珍らしい娘の目にはさすがにこの景色が面白いと見えて、たびたびああいい景色と賞めた。
途中では出遇ッた人もまれであッた。初め出遇ッたのが百姓で、重そうな荷をえッちらおッちら背負ッていたが、わざわざ頬冠《ほおかむ》りを取って会釈して往き過ぎた。次に出遇ッたのが村の娘で、土堤の桑の葉を摘みに来たのか、桑の葉の充満《つまッ》た目籠《めかご》をてんでん小脇《こわき》に抱えていたが、われわれを見るとこそこそ土堤の端の方へ寄ッて、立ち止まッて,「あれはどこ様の嬢様だが、どこさアへ往かッせるか」などと噂をしていた。その次に見かけたのが農家の小児で、土堤で余念なく何やら摘んでいたが、その中一人が何か一言言ッたのを相図に、真暗三宝《まっくらさんぼう》駆け出《いだ》した,それから土堤の半腹まで往き、はるかにこちらをふり向いたが、上から勘左衛門が手招ぎをしたら、またわイわイと言ッて一目散に駆け下りてしまッた。
勘左衛門の来たのはわれわれの興を増す種であッた。この男が歩きながら始終|滑稽《こっけい》を言ッていたので、途中は少しも退屈せず、いつの間にか境駅のこちらの渡し場まで来た。渡守《せんどう》はわれわれの姿を見るといきなり小屋から飛び出して、二ツ三ツ叩頭《じぎ》をしてそして舟を出した。
このところは川幅は六七町もあろうか、これから上になると十四五町もあろう、大刀根、小刀根、と分れるところでその幅最も広いところだ。娘は姉に向ッて言うには,「このごろ江戸で名の高い馬琴という作者の書いた八犬伝という本を読みましたが、その本に出る人で……」とかの犬飼犬塚の両犬士が芳流閣上より転《まろ》び落ちて、つい行徳《ぎょうとく》へ流れついたことを話して、その犬士の流されたところもここらであろうかなどと話しているうち、船は向うの岸へ着いた。それから上陸して境駅の入際《いりぎわ》からすぐ横へ切れると、森の中の小径へかかッた,両側には杉《すぎ》、檜《ひのき》、楢《なら》などの類《たぐい》が行列を作ッて生えているが、上から枝が蓋《かぶ》さッていて下に木下闇《こしたやみ》が出来ている、その小径へかかッた。
「もうじきそこからはいるのです。さア皆さん採りッこをしましょう」と勘左衛門が勇み立ッた、もっともわざと。
「秀さんようございますか」娘は笑いながら――「まけませんよ」
「ええ、ようございますとも。負けるもンか女なんぞに」
長井戸の森は何里ぐらい続いていたか、自分はよく覚えておらぬが、随分大きな森であッた,さて森の中の小径をおよそ二三町もはいッて往くと、葉守《はもり》の神だか山の神だかえたいの分らぬ小さな神の祠《ほこら》の前へ出た、これが森の入口なので。森の中へはいッて見ると、小草《おぐさ》の二三寸延びた蔭または蚊帳草《かやつりぐさ》の間などから、たおやめの書いた仮名文字ののしという恰好《かっこう》で、蕨《わらび》が半身を現わしていた,われわれはこれを見ると,そらそこにも! おお大層に! ほらここにも! なんとまア! などとしきりに叫びながら小躍《こおど》りをして採り始めた,始めのうちは皆一とこで採ッていたが、たちまち四五間七八間と離れ離れになッて採り始めた、そして一本の蕨を二人が一度に見つけた時などは、騒ぎであッた,
「あれ私が見つけたのだワ!」
「あらまア! お嬢様、おずるい。これは私が見つけました」
「お雪さま、清にお負けなさいますな」
そうかと思うとあちらの方では,「おやどこへ往ッたろう?」「こちら、こちら!」などと手を叩いていた。また蕨に気をとられて夢中でいると、突然|足下《あしもと》から雉子《きじ》が飛び出したのに驚かされたり,その驚かされたのが興となッて、一同|笑壺《えつぼ》に入ッたりして時のうつッたのも知らず、いよいよ奥深くはいッて往ッた。不意に人声が聞え出した,どこから聞えるのだか? 方々を見廻すと、はるか向うの木の間から煙《けぶり》が細く、とんと蛇のように立ち昇ッていた。
われわれは行くともなく、進むともなく、煙の立つ方へ近づいた,すると木の間から三人の人影が見
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