風を欠くものであるが、娘はその風をも備えていた。清水の叔父は自分の父の弟で、祖母には第二番目の子だ、それゆえ娘は自分と同じように祖母の孫で、しかも最愛の孫であッたそうな。その夜一同客座敷へ集まッて四方山《よもやま》の話を始めたが、いずれも肉身《しんみ》の寄合いであるから誰に遠慮ということもなくその話と言ッては藩中のありさま、江戸の話、親類知己の身の上話、またはてんでんの小児《こども》の噂などで、さのみ面白い話でもないが、しかしその中には肉身《しんみ》の情と骨肉《ちすじ》の愛とが現われていて、歎息《たんそく》することもあれば、口を開いて大笑いをすることもあッて近ごろ珍らしい楽しみであッた。祖母はお雪やここへというような風に、目つきで娘を傍《そば》へ招いて、いろいろなことを尋ねたり語ッたりしていたが,その声の中には最愛《いとおし》可愛《かあい》という意味の声が絶えず響いていたように思われた,そして祖母は娘が少《ちい》さかッた時のように今もなお抱いたり、撫《な》でたり、さすッたりしたいという風で、始終娘の貌《かお》をにこにことさも楽しそうに見ていたが,娘も今は十八の立派な娘ゆえ、さすがにそうもなりかねたか、ただ肩に手を掛けて,「ほんに立派な娘におなりだの」と言ッたのみであッた。自分は祖母が自分を愛するようにこの娘を愛している様子、と自分が祖母を慕うように娘が祖母を慕ッている様子、とを見て何となく心嬉《こころうれ》しく思ッた。
 その翌日のことで自分は手習いから帰るや否や、「娘はどうしたかな?」と見ると姉の室で召し伴《つ》れて来た女中と姉と三人で何やら本を見ていたが、自分を見てにッこりしたので自分もその笑い貌に誘い出されて何ゆえともなくにっこりした。自分はこれから剣術の稽古があるから、すぐに稽古着を着て、稽古|袴《ばかま》をはいて、竹刀《しない》の先へ面小手《めんこて》を挾《はさ》んで、肩に担いで部屋を出たが,心で思ッた、この勇ましい姿、活溌《かっぱつ》といおうか雄壮といおうか、その活溌な雄壮な風と自分が稽古に精を出すのとを娘に見せてやろうと思ッた,それから武者修行に出る宮本|無三四《むさし》のことを思い出しながら、姉の部屋へはいッたが、この小さな無三四は狡猾《こうかつ》にも姉に向ッて、何食わぬ貌で,「叔父さんは?」と問《たず》ねた,姉は何とか対《こた》えていたが自分はそんなことは聞きもせず、見ぬふりで娘の方をちらりと見て、それなり室を出てしまうと後から笑い声が聞えた。自分の噂だなと嬉しく思ッたが、今さら考えると、なんのそうでもなかッたのであろう、晩方から親類、縁者、叔父の朋友《ほうゆう》、大勢集まッて来たが、中には女客もあッたゆえ母を始め娘も、姉も自分もその席に連なッた。そのうちに燭台《しょくだい》の花を飾ッて酒宴が始まると、客の求めで娘は筑紫琴《つくしごと》を調べたがどうして、なかなか糸竹の道にもすぐれたもので、その爪音《つまおと》の面白さ,自分は無論よくは分らなかッたが、調べが済むと並みいる人たちが口を極めて賞めそやした。娘は賞められて恥かしがり、この席に連なッているのをむしろ憂《つら》いことと思ッているらしく、話もせず、人から物を言いかけられると、言葉少なに答えをするばかり、始終下を向いていた,がその風はいかにも柔和でしとやかで、微塵《みじん》非難をする廉《かど》もなく、何となく奥ゆかしいので、自分は余念もなくその風に見とれていた。
 自分の父は武辺にも賢こくまた至ッて厳格な人で、夏冬ともに朝はお城の六ツの鐘がボーンと一ツ響くと、その二ツ目を聞かぬ間にもウ起き上ッて朝飯までは、兵書に眼《まなこ》をさらすという人であッた,それゆえ自分にも晏起《あさね》はさせず、常に武芸を励むようにと教訓された。
 自分はありがたいことには父のお蔭で弓馬|鎗剣《そうけん》はもちろん、武士の表道具という芸道は何一ツ稽古に往かぬものはなかッたが、その中で自分の最も好いたものはというと弓で,百歩を隔てて、柳葉《りゅうよう》を射たという養由基《ようゆうき》、また大炊殿《おおいでん》の夜合戦に兄の兜《かぶと》の星を射削ッて、敵軍の胆《きも》を冷やさせたという鎮西《ちんぜい》八郎の技倆《ぎりょう》、その技倆に達しようと、自分は毎日朝飯までは裏庭へ出て捲藁《まきわら》を射て励んでいた。
 今日も今日とて裏庭へ出て、目指す的と捲藁を狙《ねら》ッて矢数幾十本かを試したので、少し疲れを覚えて来たゆえ、しばし一息を入れていると冷や冷やとして心地《こころもち》よい朝風が汗ばんで来た貌や、体や、力の張ッて来た右の腕《かいな》へひやりひやりと当るのが実に心持のよいことであッた。誰でも飢えた時|渇《かわ》いた時には食物や水がうまいものであろうが、その時の朝風は実にその食物や水
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