方に運送するものらしい。日はもウ七ツ下り、斜めに水を照らし森を照らして、まことにいい景色である,がもう見る気はない,娘が貌《かお》に失望の意を現わして、物をも言わず、悄然《しょうぜん》として景色を眺めつめているのを見ては。
「おや、こんな大きな沼があるようでは……こちらでもなかッたと見えますねエ、しかたがない、後へ戻《もど》りましょう」
 娘は歎息《たんそく》したがどうも仕方がない、再び踵《きびす》を廻《めぐ》らして、林の中へはいり、およそ二町余も往ッたろうか、向うに小さな道があッて、その突当りに小さな白屋《くさのや》があッた。娘はこの家を見ると、少し歩くのを遅くして、考えている様子であッたが、
「秀さん、ちょうどいい。あすこの家へ往ッて頼んで、皆さんを尋ねてもらいましょう。それに皆さんも私たちを尋ねて、ひょッと彼家《あすこ》へでも尋ねて往ッて、もし私たちが来たら止めておくようにと頼んであるかも知れません,まァ彼家《あすこ》へ往ッて見ましょう」
 自分は異議なく同意して、いきなりその家へ飛び込んだ。家では老夫婦が糸を取り、草鞋《わらじ》を作ッていたが、われわれを見てびッくりした様子,自分は老婆に向い,
「おイ婆《ばあ》やア、誰か尋ねて来なかッたかい、おいらたちを」
「はアい、誰もござらッさらねエでしたよ」老婆は不審そうに答えた、「誰か尋ねさッしゃるかな、お坊様」
「蕨採りに来たのだが、はぐれてしまッたの、連れの者に。おイ、老爺《じい》や、探して来てくれないか、ちょッと往ッて」
 自分が唐突《だしぬけ》に前後不揃いの言葉で頼んだのを、娘が継ぎ足して、始終を話して、「お気の毒だが見て来て」と丁寧に頼んだ。
「それエ定めし心配していさッしゃろう、これエ爺様《とッさま》よう、ちょッくら往ッて見て来て上げさッせいな」
 最前から手を休めて、老父は不審そうに見ていたが、
「むむ見て来て上げべい。一ッ走り往ッて」
ト言ッたが、なかなかおちついたもので,それから悠然《ゆうぜん》と、ダロク張りの煙管《きせる》へ煙草を詰め込み、二三|吹《ぷく》というものは吸ッては吹き出し、吸ッては吹き出し、それからそろそろ立ち上ッて、どッかと上り鼻へ腰を掛けて、ゆッくりと草鞋をはき出した。はいてしまうと、丁寧に尻を端折ッて、さてそこでやッと自分に向ッて、
「坊様、どッちらの方でさアはぐれさしッただアの?」
 自分は方角を指し示した。老婆は老爺《じい》の出て往くのを見送り、それから花筵《はなござ》を引き出して来て、
「さア嬢様。お掛けなせいまし、そこはえらく汚ねエだから。さお坊様掛けさッさろ」
「婆やア湯をおくれ、気の毒だが」
「湯かのう? 今上げますで、少し待たッせい,一ッくべ吹《ふ》ッたけるから。
 老婆が鑵子《かんす》の下を吹ッたける間、自分は家の内を見廻した。この家は煤《すす》だらけにくすぶり返ッて、見る影もないアバラス堂で、稗史《よみほん》などによく出ている山中の一軒家という書割であッた。そのうちに鑵子の湯は沸き返ッたが、老婆は、ヒビだらけな汚ない茶碗へ湯を汲《く》んで、それを縁の欠けた丸盆へ載せて出した。自分は喉が渇《かわ》いていたから、器《うつわ》のきたないのも何も知らず、ぐッと一息に飲み、なお三四杯たてつけに飲んだ,娘は口の傍へ持ッて往ッて見て少し躊躇《ためら》ッていたが、それでも半ば飲み干した,この時自分は、「さても鑵子の湯はうまいものだ」と思ッた。
 この老婆は誠に人のよさそうな老婆で、いろいろなことを話しかけるので、娘はその相手をしていた。自分はまたかかる山家へ娘と二人で来て、世話になるというのは、よほど不思議なこと、何かの縁であろうと思ッた,それが考えの緒《いとぐち》で、いろいろのことを思い出した。すなわち、このような山中で、竹の柱に萱《かや》の屋根という、こんな家でもいいによッて、娘と二人していたいと思ッた,するとその連感で、自分は娘と二人でこの家の隣家に住んでいる者で、今ちょッと遊びにでも来た者のような気がした,するとまた娘の姿が自分の目には、洗《あら》い晒《ざら》しの針目衣《はりめぎぬ》を着て、茜木綿《あかねもめん》の襷《たすき》を掛けて、糸を採ッたり衣《きぬ》を織ッたり、濯《すす》ぎ洗濯、きぬた打ち、賤《しず》の手業《てわざ》に暇のない、画にあるような山家の娘に見え出した、いや何となくそのように思われたので。それゆえ自分は連れにはぐれて、今ここへ来ている者だなどということは、ほとんど忘れたようになッていた。不意に表の方が騒がしくなッた。
 自分は覚えず貌を上げてそして姉を見た。
「おお秀坊が!」
 第一に姉が叫んだ。
 誰しも苦痛心配は厭《きら》いであるが楽になッてから後、過ぎ去ッた苦痛を顧みて心に思い出したほど、また楽しみのことは
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