ない,それと大小の差はあるが、心持は一ツだ。昼間自分たちのはぐれたのは、一時は一同の苦痛であッたが、その夜家へ帰ッてから、何かにつけてそのことを言い出しては、それが笑いの種となり話の種となッた時には、かえッて一同の楽しみとなッた。自分は娘が嬉しそうな貌をして、この話をしている様子を見て、何となく喜ばしく、そして娘も苦痛を分けた人が自分であると思うと、一層喜ばしく、その日の蕨採りは自分が十四歳になるまでに絶えて覚えないほどな楽しみであッた、と思ッた。しかし悲喜哀歓は実にこの手の裏表も同じこと、歓喜《よろこび》の後には必ず悲しみが控えているが世の中の習わし。平常は自分はいつも稽古に往ッていて、夜でなくては家にはいない、それゆえ何事も知らずにいたが、今宵《こよい》始めて聞いた,娘は今度逗留中かねて世話をする人があッて、そのころわが郷里に滞在していた当国|古河《こが》の城主土井|大炊頭《おおいのかみ》の藩士|某《なにがし》と、年ごろといい、家柄といい、ちょうど似つこらしい夫婦ゆえ、互いに滞留しているこそ幸い、見合いをしてはと申し込まれたので、もとより嫁入り前の娘のことゆえ、叔父もたちまち承諾して見合いをさせたところ、当人同志の意にもかない、ことに婿になる人が大層叔父の気にかなッたとやらで、江戸へ帰ッたらば、さらに仕度をさせて、娘を嫁入らせるということを聞いた。
これを聞いた自分の驚きはどんなであッたろう、五分も経《た》たぬうち、自分はもウわが部屋で貌を両手へ埋めて、意気地《いくじ》もなく泣いていた。
その夜|臥《ね》てから奇妙な夢を見た、と見れば、自分は娘と二人でどこかの山路《やまじ》を、道を失ッて、迷ッている。すると突然傍の熊笹《くまざさ》の中から、立派な武士《さむらい》が現われて、物をも言わず、娘を引ッさらッて往こうとした。娘は叫ぶ、自分は夢中、刀へ手を掛ける、夢中で男へ切りつける、肩口へ極深《のぶか》に、彼奴《かやつ》倒れながら抜打ちに胴を……自分は四五寸切り込まれる、ばッたり倒れる、息は絶える,娘はべッたりそこへ坐ッて、自分の領《えり》をかかえ抱き起して一声自分の名を呼ぶ,はッと気がついて目を覚ます……覚めて見ると南柯《なんか》の夢……そッと目を開いて室を見廻わして、夢だなと確信はしたが,しかしその愛らしい優しい手が自分の領を抱えて、自身が血に汚《よご》れるのも厭《いと》わず、血みどりの体を抱き起して、蕾《つぼみ》のような口元を耳の傍へ付けて、自分の名を呼んだ時の貌、その貌はありありと目に見える,それに領は、どうしても、たッた今まで抱えられていたような気がする、そッと領へ手をやッて見ると、温かい,静々室の内を見廻わして見たが、どうも娘がいたようで、移り香がしているような気がする、さアそう思うと、気が休まらぬ。床の上へ起き直ッて耳を清《すま》して見ると、家内は寂然《しーん》としていて、鼠《ねずみ》の音が聞えるばかり……自分はしばらく身動かしもせず、黙然としていたが,ふと甲夜《よい》に聞いたことを思い出して、また何となく悲しくなッて来た。
さて翌日となッた,明日の晩は叔父も娘も船路で江戸へ帰るから、今宵一夜が名残りであると、わずか十里か十五里の江戸へ往くのを天の一方へでも別れるように思ッて、名残りを惜しむ一同が夜とともに今宵を話し明かそうと、客座敷へ寄り集まッた。自分は悲しさやる方なく、席へ連なるのも気が進まぬゆえ、心持がわるいと名を付けて、孤燈の下にわが影を友として、一人室の中ですねていた,が暫時はこうしていたようなもののそのうちに、娘はどうしたか、という考えが心の中でむずついた。もウ棄ててはおかれぬ、そッと隣座敷まで往ッてはいろうか、はいるまいか、と躊躇《ためら》いながら客座敷の様子を伺うと、娘は面白そうにしきりに何か話していた。自分のことなどは夢にも思ッていないようで。こう思うと気がもしゃくしゃとして来た、すぐに踵《きびす》を廻らして室へ戻り、机の上へ突ッ伏してただわけもなく泣いていた。しばらく経つと、唐紙の開くような音がして、誰だか室へはいッて来た、見れば姉で、祖母《ばば》さまがあちらへ来いと言うからおいで、と言ッていろいろ勧めた,自分の本心は往きたかッたので渡りに舟という姉の言葉、すぐ往けばよかッたが、そこがわがままッ子の癖で,――お泣きでないよ、と優しく言われると、いよいよ泣き出したがるようなもので――勧められるほどいよいよすねて,
「厭だと言ッたら厭だい。馬鹿め」
姉はあきれて往ッてしまッた,もう往く機会は絶えた、一層わが身を悔んでわれとわが身に怒ッていると、次の間へ人の足音がして隔ての襖《ふすま》が開いた。姉だと思ッてふり向きもせず、知らぬ貌をしていると、近づいた人は叱るような調子で,
「何をしておいでなさ
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