と》、その蹴返《けかえ》す衣《きぬ》の褄《つま》、そのたおやかな姿、その美しい貌、そのやさしい声が、目に入り耳に聞えるので,――その人の傍にいるとどこかかすかに感じていたので,それゆえ一層楽しかッた。不意に自分は向うの薄暗い木の下に非常に生えているところを見つけた。嬉しさの余り、声を上げながら駆け寄ッて、手ばしこく採ろうとすると、娘も走《か》けて来て採ろうとするから、採ッてはいけないと娘をささえて、自分一人で採ろうとした,がいけなかッた,自分は今まで採り溜《た》めたのを、風呂敷へ入れて提《さ》げていたが、それを今すッかり忘れて、その風呂敷を手離して、娘と手柄を争ッたので、風呂敷の中から採ッたのが溢《こぼ》れて、あたりに散るという大失敗、あわてて拾い集めるうちに、娘は笑いながら、一ツも残さず採ッてしまッた。自分が見つけたのを横取りするのはひどい、返して下さい、と争ッて見たが、娘は情|強《こわ》く笑ッていて、返しそうな様子もないから、自分は口惜《くちお》しくなり、やッきとなり、目を皿のようにして、たくさんあるところを、と、見廻わした、運よくまた見つけた、向うの叢蔭《むらかげ》に、が運わるく娘も見つけた。や負けた、娘が先へ走り寄ッた。唐突《だしぬけ》に娘があれエと叫んだ、自分は思わずびッくりした,見れば、もウ自分の傍にいた、真青になッて、胸を波立たせて、向うの叢《くさむら》を一心に見て。自分は娘の見ているところ、その叢を見ると、草がざわざわと波立ッて、大きな青大将がのそのそと這《は》ッて往ッた,しばらくして娘はほッと溜息を吐《つ》いて、ああ怖かッた、とにッこりしてそしてあたりを見廻わして、またおやと言ッた。先の驚きがまだ貌から消えぬうちに、新しい驚きがその心を騒がしたので、以心伝心娘の驚きがすぐ自分の胸にも移ッた。見ればあたりに誰もいない。母を呼びまた姉を呼んで見たが、答うる者は木精《こだま》の響き、梢の鳥、ただ寂然《しん》として音もしない。
「どこへ皆さんは往きましたろう」心配そうな声で、「ついうッかりしていて」
「そうですねエ……」
「立ッていても仕方がありませんから、まア向うの方を尋ねて見ましょう」
 蕨はもウそッちのけ,自分は娘の先へ立ッて駆けながら、幾たびも人を呼んで見たが、何の答えもなかッた。
「こちらの方ではなかッたかしらん」娘は少し考えていて、「あッちかも知れません、秀さん、あッちへ往ッて見ましょう」
 走《か》け出して見た、が見当らぬ,向うかも知れぬ、とまたその方へ走け出して見たが見当らぬ,困ッた。娘はさも心配そうにしきりと何か考えていたが、心細そうな小さな声で,
「秀さん、あなた、道を知ッていますか?」
 自分とてこのへんはめッたに来たことのないところ、道を知ろうはずはない、が方角だけはようようと考えついた。
「いいえ、よくは知らない,けれどこッちの方が境だから、右の方へずんずん往きゃア、あの、きッと境へ出るから、そうすりゃア、もうわけはない。もしか見つからなきゃア、なんの、先へ帰ッてしまいましょう」
 娘はしばらく考えていたが、少しは安心した様子であッた。
「もし先へ帰ッたら、きッと皆さんが心配しましょう。それにせっかく一しょに参ッたものを」……少し考えていたが、「まアこッちの方へ往ッて見ましょう、もう一度,今度はどこまでも往ッて見ましょう。よウ、何をぼんやりして……秀さん」
 また歩き出した。
 少年のころは人里離れた森へなど往くのは、とかく凄《すご》いように思うものだが、まして不知案内の森の中で、しかも大勢で騒いでいた後、急に一人か二人になッて、道に迷いでもすると、何となく心細くなるもので。自分も今日のようなことにもし平常の日に出遇ッたならば、定めて心細く思ッたのであろう,がしかし愛というものは奇異なもので、(たといこの時自分は娘を慕ッていたと知ッていなかッたにしろ)隠然と愛が存していたので心細いとは思わなかッた,むしろこの娘とたッた二人、人里を立ち離れた深林の中に手を携えていると思うと、何となく嬉しい心持がして、むしろ連れの者に見つからなければいいというような、不思議な心持がどこにかあッて、そして二人して扶《たす》けあッて、木の根を踏みこえて走けて往くのを、実に嬉しいと思ッていた,自分は二町ほどというものは、何の余念もなくただうかうかと、ほとんど夢中で走ッて往ッた。すると突然目の前に大きな湖水が現われた。
 はるかに向うを見渡すと、森や林が幾里ともなく続いているが、霞に籠《こも》ッて限りもなく遠そうだ、近いところの木は梢を水鏡に写して、倒《さかさ》に水底から生えているが、その水の青さ、いかにも深そうだ,薪《まき》を積み上げた船や筏《いかだ》が湖上をあちこちと往来しているが、いかさま林から切り出したのを、諸
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