初子とかいう名だった。――両手を膝《ひざ》の上へきちんと重ねて坐っていた。自分はふらふらと立ち上ってその妓の背後から肩を両手で抱くようにして、嫌《いや》がるのを無理に頬辺へ接吻《せっぷん》してやった。……それから誰か二三人と隅《すみ》の方へ陣取って大いに飲んだ、その時、誰だかが、何のことだか、「……それは世界の大いなる皮肉で、それは何ものかに対しての大いなる攻撃であらねばならぬ」こんなことを叫んでいたのを覚えている。……そしてそれから、……
 どうしてもこの先がはっきりしない。
 部屋を二つほど隔てたと思われるあたりに時計が四時を報じた。どこか板敷きの床の上をコツコツと歩く靴《くつ》の音がして、やがて奥の方で、「△△君、○○君、交代!」という声がした。しばらくするとまた前と同じような靴の音がコツコツとして、そのあとはまた以前と同じような寂寞《せきばく》に帰った。
 今までつい気がつかずにいたが、家のすぐそとに何やらさらさらと水の流れる音がしている。耳を澄ますと、時々舟が通るのかひたひたという波の音も聞えてくる。
 彼は起き上って一方の壁に身を寄せて、今さらのようにつくづくあたりを見廻し
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