れた。式後に當時全歐の覇王であつた萬有科學の權威國ドイツ皇帝陛下から數百人の學者の前で、親しく推稱の演説を忝けなうした唯一の光榮者は彼野口であつた。
 かゝる學者が日本人であつたといふ事はどれほど日本の光榮であるか、後進の青年輩にとりて何等の活ける教訓であるか。惜いかな、その日その日の紛々たる出來事が絶えず眼前に現るゝので健忘の我々は、かゝる偉人の存在をもさつさと葬り去つてしまふ、無理も無いが殘念である、教育上からも多大の損失である。
 彼が偉勳を立てた南米エクアドルには、その表彰の記念碑があり銅像があり、野口町と改稱された町があるのに、日本に同樣のものが無いのは惜しい。確聞する所だが『もし野口記念會が確立するなら毎年三千ドルを送金しよう』と外務省あてにロツクフエラー研究所から通知されてゐるといふ。私はこれを爲政者、教育者に注意し、そして「野口記念館」の速かな設立を切に勸めたい。
 野口は福島縣の猪苗代湖畔の極貧兒と生れ、三歳の折爐に落ちて右手は無殘に燒けたゞれ、不具兒となつたが、天分の英才は小學時代から光りだした。これを認めてこの神童を大成せしむべく努力した最初の恩人は猪苗代町古城町
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
土井 晩翠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング