一九二八(昭和三年)五月二十一日、西アフリカのゴールド・コースト州アクラ港で研究中の黄熱病にかゝり殉道の死を遂げた時は全世界が哀悼した。ロックフエラー研究所は『古今を通じて最大の細菌學者の一人』と賛した。アメリカの議會はその名において弔意を表し『十九世紀より二十世紀にわたつての世界の三大醫學者の一人』と稱した。
 彼が古今を通じて日本の生める最大人物の一人であることは明々白々である。一九一三年オーストリーのヰインで、萬有科學大會第八十五回が開かれた時、招聘されてアメリカから渡つた野口は、同會で三大講演をやつた、そして全歐の學界に鳴りひびいてゐるフオン・ミユーラー(同會々長)に深大の敬禮を拂はれた。講演終了の後、野口と一言半句でも交はしたいと押し寄せてくる崇拜者の洪水に對して水門を加減するのは非常の骨折で又非常の喜びであり誇りであつたと東京帝大の眞鍋嘉一郎教授が當時の思ひ出を書いたのを今に記憶する。當時ヰインの最大新聞紙は第一面に野口の肖像をのせ『日本の凱歌』と最大の活字で題した長記事をのせた。その後ドイツに行つてベルリン郊外ダーレムに新設のカイゼル・ウィルヘルム研究所の開場式に招待さ
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