文科に入つた。文學部長は我々が大入道と綽名した外山博士であつた。井上哲次郎博士が獨逸から六年餘の留學を卒へ、歸朝して萬丈の氣※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]を吐いたのも其頃である。翌年所謂赤門文學「帝國文學」(月刊)が創刊された、第一號に序を書いたのは高山樗牛であつた。編輯委員は哲學科の高山、國文科の鹽井(雨江)大町(桂月)佐々(醒雪)英文科の上田(柳村――敏)であつた。初號中の一長篇に對して反感を抱いた某雜誌(名を忘れた)が『長いことろくろ[#「ろくろ」に傍点]首のへど[#「へど」に傍点]の如し』と冷評した。
「帝國文學」は又時々名士を聘して講演を開いた。其何囘目かに矢野龍溪、福地櫻痴のを私が聽いたのは小石川植物園に於てであつた。龍溪の莊重な態度は今でも目に殘る。孔明を歌へる杜少陵の句『宗臣遺像肅清高[#「肅清高」に丸傍点]』が思ひ出される。これより先、明治十七年、彼は「齊武名士經國美談」を著はして所謂洛陽の紙價を高からしめ、我々少年時代の隨喜渇仰の的であつた。エパミノンダス、ペロピダス等の名は之に因て我々の熟知する處となつた。彼は國家經綸の才を以て自ら任じて抱負が
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