坊ぞ(「取りも直さず」は「即ち」)泥坊元來不正なり・雲を霞と逃ぐるとも・早く繩綯ひ追ひ駈けて・縛せや縛せ犯罪人。』
前の「新體詩抄」及び之から出發した竹内節の新體詩歌に歸るが、其中に井上博士はロングフエローの『|人生の歌《ゼサームオフライフ》』を譯した。此原詩は米國の少年達は皆悉く暗誦して居るだらう。日本の少年達もさうするがよい。靈魂不滅と敬神と發奮努力と希望とを歌つてゐる。後に相模の海岸で溺死した矢田部理學博士は尚今居士の號でグレイの『哀歌《エレヂイ》』を譯した。
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『山々かすみ入相の・鐘は鳴りつつ野の牛は・徐に歩み歸り行く・耕す人もうち疲れ・やうやく去りてわれ獨り・たそがれ時に殘りけり。』(首節)
『此處に生れてこゝに死に・都の春を知らざれば・其身は淨き蓮の花・思は澄める秋の月・實《げ》に厭ふべき世の塵の・心に染みしことぞなき』(十九節)
『これより外に此人の・善惡ともになほ深く・尋ぬるとても詮は無し・たましひ既に天に歸し・後の望を抱きつつ・神にまぢかく侍るなり』(終節)
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恐らく當時第一の好譯詩であらう。曰ふ迄もなく原詩は不朽の傑作である。私は十四五歳の頃、この譯詩を非常に愛讀した。そして親戚の庄司(當時駒場農學校生「わかもと」の澤田博士の友)が原詩を有したのを借りて來て覺束なくも讀んで見た、或は寧ろ(當時やつとABCを習つたばかりだから)眺めたといふ方が正しからう。西詩に對する私の愛好は多分これからであつただらう。
『ハムレツト』中の有名の獨語“To be or not to be……”の譯も詩抄中にあつた。――
『ながらうべきか但し又・ながらふべきに非るか・是が思案のしどころぞ……』途方も無い譯であるが、是に因て私は初めてシエイクスピヤの名を知つた。
小學時代には父(擧芳と號した父)の感化で太閤記、八犬傳、三國志、水滸傳などを、又教科書としては、就中十八史略を愛讀したが、其後十八歳迄の獨學時代、竝に之に續く時代に影響を受けたものの中に、その頃創刊の「國民の友」又日刊の「自由の燈」がある。前者の明治二十二年の文學附録「おもかげ」などは最も好んで讀んだ。『みちのくの眞野の茅原遠けどもおもかげ[#「おもかげ」に傍点]にして見ゆとふものを』から題を取つたもの、落合直文、森林太郎(鴎外)等諸先生の西詩譯集である。後
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