者は怪傑星亨の機關新聞で、猛烈に薩長政府を攻撃した。此紙上で千八百八十五年ユーゴーの逝ける時、二三十囘に連載した此大文豪の傳記評論を讀んで多大の感激と印象とを得た。
 明治二十一年十八歳で二高に入學、補充科一年、豫科三年、本科二年の科程を、六ヶ年かかつて終了したが、其頃に山田美妙や尾崎紅葉や幸田露伴先生が現はれた。山田は言文一致體――今日の口語體の先鋒で金港堂發行月刊「都の花」の花形であつた。末路は悲慘であつたが、彼の遺した文學上の功績は斷じて僅少でない。紅葉は『七生文章に盡さん』と其後臨終の際に曰つた通り、彫心鏤骨の文章を書いたのは尊い。露伴先生が明治二十二年(二十三歳で)「風流佛」(新著百種第五卷)を、翌年つづいて「對髑髏」(初名「縁外縁」)を著はされたのは私共にとつて駭心張目の對象であつた。故内田魯庵が『此兩作を書いた露伴は只に明治文壇とのみ曰はず、世界文學界の珍である、眞に百世稀に出づる天才の面影は此作に最もよく現はれてをる』と激賞した。(春陽堂の明治大正文學全集第六卷第六百六十六頁、柳田泉氏の解題による)
 日清戰爭の初めの年明治二十七年、仙臺から始めて出京して東京帝國大學英文科に入つた。文學部長は我々が大入道と綽名した外山博士であつた。井上哲次郎博士が獨逸から六年餘の留學を卒へ、歸朝して萬丈の氣※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]を吐いたのも其頃である。翌年所謂赤門文學「帝國文學」(月刊)が創刊された、第一號に序を書いたのは高山樗牛であつた。編輯委員は哲學科の高山、國文科の鹽井(雨江)大町(桂月)佐々(醒雪)英文科の上田(柳村――敏)であつた。初號中の一長篇に對して反感を抱いた某雜誌(名を忘れた)が『長いことろくろ[#「ろくろ」に傍点]首のへど[#「へど」に傍点]の如し』と冷評した。
「帝國文學」は又時々名士を聘して講演を開いた。其何囘目かに矢野龍溪、福地櫻痴のを私が聽いたのは小石川植物園に於てであつた。龍溪の莊重な態度は今でも目に殘る。孔明を歌へる杜少陵の句『宗臣遺像肅清高[#「肅清高」に丸傍点]』が思ひ出される。これより先、明治十七年、彼は「齊武名士經國美談」を著はして所謂洛陽の紙價を高からしめ、我々少年時代の隨喜渇仰の的であつた。エパミノンダス、ペロピダス等の名は之に因て我々の熟知する處となつた。彼は國家經綸の才を以て自ら任じて抱負が
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