し一國の・不覊獨立の勢は・留めんとすれど止らず・北亞米利加の十三州・……十三州の名代人・四十八士の連判状・世界に示す檄文に・英吉利王の罪を攻め……失ふ生命《イノチ》得る自由・正理屈して生きんより・國に報ゆる死を取らん・一死決して七年の・長の月日の攻守《セメマモリ》・知勇義の名を千歳に・流す血の河骨の山・七十二戰の艱難も・消えて忘るゝ大勝利・……』
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 次に米國の建國と進歩とを謳歌して『工商は英國と比肩し、文教技藝は佛國に優る』と讚し、世界の四方より『衣食を逐ふ人の情』で、集り來る殖民の故に、人口三千餘萬に増加し、(日本も明治十五六年頃は「三千餘萬兄弟どもよ、守りにまもれ君が代を……」と歌つたものだ)東西一千三百里、南北七百里、十三州は三倍して『三十六州竝び立ち』……ニユーヨルク(入世留久!)は、人口凡一百萬・國中一の交易場である……と書いてゐる。福澤先生は其後「暗誦十詞」を明治六年刊行したと、今は故人たる吉野甫が、明治四十一年昭文堂刊行の「明治詩集」中の新體詩年表に書いたが、それはまだ讀むで居ない。
 明治時代韻文刊行の第二は、其後十年ばかりを過ぎて、明治十五年四月の「新體詩抄」であらう。東京帝國大學(當時唯一の帝大)の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎三博士の合編である。其第一頁は『ブルウムフヰールド氏兵士歸郷の詩』外山(ゝ山仙史)の譯、『凉しき風に吹かれつゝ……』である。
 前記「國語と國文學」の井上先生の當時の追想談を讀むと、外山博士の熱心が窺はれる。今でも軍歌として時々ラヂオにも出て來る拔刀隊歌(明治十年西南役の歌)は其作である。『我は官軍我が敵は天地容れざる朝敵ぞ、敵の大將たる者は古今無双の英雄ぞ、之に從ふつわものは共に慓悍決死の士……』私は「東洋學藝雜誌」で初めて之を讀むだ(同誌に東京市の歌「あな變りたり武藏野や」といふのもあつたが誰れの作か覺えて居ない)。
 其後又十餘年を過ぎて外山井上兩博士は共に明治廿八年初刊の「帝國文學」紙上に時々詩を發表した。『旅順の英雄可兒大尉』といふ散文詩(?)を外山博士は日清戰役時代に書いた。其頃皮肉屋の齋藤緑雨が、『新體詩見本』と題して外山、佐佐木(信綱)、與謝野鐵幹等諸家の口調を眞似て Parody を書いた。外山調に『火鉢の上に鐵瓶が・落ちて居るとて無斷にて・他人の物を持ち行くは・取りも直さず泥
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