う》の緊張。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 (破るるがごとき憤怒《ふんぬ》の声)悪蛇の化性だな。そんな男体に姿をかえて上って来たのが、睫毛《まつげ》まで焼きちぢらした己の眼をくらませると思うのかい。このおおどかな梵音《ぼんおん》が山中をゆさぶって、木の根に巣をくう虫けらまで仏願に喰《く》い入るほども鳴りひびいたに、まだ執念《しゅうね》く呪いをかけようというのだな。――二つや三つの鐘を陶器《すえもの》のようにこわされても、そんなことで己の法力がゆるみはしないのだ。女鐘造り依志子の一念で、女人のたましい[#「たましい」に傍点]を千という数鋳込んだ鐘に、まじない[#「まじない」に傍点]ほどのひびでも入れて見い。ありがたい梵音が大空の月の壁から川床の小石までゆさぶるので、その身につけた鱗の皮が一つ一つ、はららけて落ちるまでおののき上って来たのだろう。――二十年が間呪いの執念のと小うるさく耳元にささやく声が、百足虫《むかで》のように頭の中を刺しまわって、何を見るにも血色の網からのぞくような気持だったが、今夜という今夜こそ、この鐘がなりひびいた祈誓の結着に、たたきひしいでくれようわ。
[#ここから2字下げ]
はためき号《おら》び、たちまち悪獣の餌《えさ》に跳るがごとく突き寄らんとするや、若僧は怪しく叫びて谷に下れる森林の中に身を退《すさ》り、妙念これにつづきて二者の姿見えずなる。若僧の悲鳴。――その声たとえば打ち殺さるる犬等の、ゆらめき漂う煙にも似し悲鳴のごとく、またたとえば直ちに腸を引きさかるる人間の喚《さけ》ぶに似たり。迸《ほとばし》り出づる血の絶叫と、ねじりし出でし苦悶《くもん》の声と、交々《こもごも》にたえだえにきこゆ。
場《じょう》に残れる三人の僧徒らは、ことごとく生色を失い、なすことを知らざるさまにおののきてあり。いまだほどへざるに悲鳴|已《や》み、これに代えてさらに怖るべき物の音《ね》を聞き出でたるがごとく、恐怖の流れ、漲《みなぎ》り脈打つがごとき間。
妙念顕わる。さきに墜《お》ち入りたるほとりの雑草に、血に染みて生けるがごとき指等を絡ましめつつ這い出づ。衣形ほとんど血に濡れてあり。僧徒らはそのさま一つ腹より出でたる犬の子らのごとく、われともなしに退り行き、上手二路の岐《わか》るるほとりに止まる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 (下手あたかも月色の渦巻ける片隅に立ちたれば、彩《いろど》られたる血の色|鮮《あざや》かに、怪体なる微笑を浮めつつ狂喜の語調にて)たたきひしいでくれたぞ。悪蛇の奴、もうのたうつ[#「のたうつ」に傍点]ことも出来ないで、石の間に目も鼻もひしゃげた顔を垂れているわ。己の指が小蛇のよう跳りながら、生白い首にからんで喉骨《のどぼね》のくだけるほども喰い入ると、腸の底から湧《わ》き上るような声がして、もう、あのぬらめいた[#「ぬらめいた」に傍点]血の汁《しる》だ。鉛を溶かしたように熱いのが顔中に溢《あふ》れて、悪蛇のうめくようは――(息のつまる笑い)ちょうどそばに細長い石があったのをへらへら[#「へらへら」に傍点]した舌の中へ、喰いしばる歯をたたき破《わ》って押し込むとだんだん呻くのが、きえて行く煙のように断え断えになって来た。(再び笑い)とうとうたたきひしいでくれたのだ。石の上で。――骨のかけるのが貝殻《かいがら》のように飛び散るのは知れたが洞穴のようなくらやみ[#「くらやみ」に傍点]で、血味噌《ちみそ》の中を幾たびかきまわしても眼と舌との見わけはつかぬ。ただ己の眼がだんだんあつい血の蒸気《ゆげ》にかすんで来て、しまいには苔の上から落ちていた血の滴も聞えずに、じかに打ち合う石の音ばかりするようになったのだから、もうほんとに執念深いたましい[#「たましい」に傍点]まで、どのような風が吹こうとも生き返っては来ないのだ、みんなも安心するがいい。二十年の間この山を取り巻いていた呪いの霧が、蛇の鱗のように剥《は》がれ落ちて、おおどかな梵音のひびく限りは、谷底に寝ほうけた蝦蟇《ひきがえる》まで、薄やにの目蓋《まぶた》をあけながら仏願に喰い入って来ようわ。久遠というえらそうな呪いも、二十年しかたたぬ今夜、ありがたい法力で己の爪が掻《か》きほどいてしまったのだ。(和《なご》やかなる微笑)みんなもよろこばないか。悪蛇の奴、もう血の汁も出なくなって皮ばかりにひしゃげた首を石の間に垂れているわ。(この時にわかに僧徒らの姿がいかなるかに気づけるもののごとく、容想たちまちにして忿恚《ふんい》を現わし、声調また激しく変ず)お前たちは何だ、なぜそんな風をして物を言わずに立っているのだ。己が悪霊をたたきひしいだ話をしているのに、なぜそんな、墓石から出た煙のように慄えているのだ。
[#ここから2字下げ]
間。僧徒らもの[#「もの」に傍点]いらえんとするも、舌|硬《こわ》ばりで能《あた》わざるがごとし。唖口の空《むな》しく動けるは死に行く魚等のさまに似たり。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 (いよいよ激して)なぜ黙っているのだ。己のものを言うのが聞えないというのか。
[#ここから2字下げ]
再び同じき期待の緊張返り迫る。ただ僧徒らに何らの抗意なく、いたずらに戦慄《おのの》けるのみなると、さきには陰地《かげじ》に立てりし妙念の、今ところを異にして月色の中に輝けると異る。(並びに血のいろと)しかも場に溢れたる景調は、あたかも最前の恐るべき幻影をまた繰り返し見んとするがごときを思わしむ。同一なる恐怖の重複。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 (全く同一なる怒調)お前たちもやっぱり悪蛇の化性だな。そんなにいくつもの相《すがた》に分れて、この山へ這い上って来たのだな。
妙信 (糸に操《あやつ》られて物言うごとく声音ことごとく変じて)そのような恐ろしい者ではございませぬ。私どもでございます。あなたのお身と同じこの山の僧徒たちでございます。
妙念 そんならなぜ物を言わないのだ。腐れたされこうべ[#「されこうべ」に傍点]のように首を並べて、慄えてばかりいるのは何だ。(間)僧徒たちの姿にのりうつって、この鐘へ取り付こうとするにちがいないわ。自分の名を称《とな》えて見ろ、一所に。
[#ここで字下げ終わり]
            妙信――
三人の僧徒ら (斉《ひと》しく)妙海――
            妙源――
[#ここから2字下げ]
三者同じき頭音はほとんど高低と不調となく、区々なる尾音おののき乱る。僧徒らみずから私に懐《いだ》きたる恐怖に、まのあたり面あえりしごとく、おのおの疑惧《ぎく》の眼を交う。間。
[#ここで字下げ終わり]

     第四段

[#ここから2字下げ]
風の声ようようはげしくなりまさりて、不断に梢《こずえ》を騒がす。僧徒らのうち左位に立てりし妙源は、この時みずから覚えざるがごとく身を退り、後の方坂路を顧みたるがあたかも何ものかを見出でて。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙源 や、女の姿が上って来る――
[#ここから2字下げ]
他の僧徒らまた一顧するや怪しく叫び、期せずして相|捉《とら》う。たとえば恐怖の流れ狂僧の枯躯《こく》を繞《めぐ》り、歯がみして向うところを転ずるごとき、間。
妙念は立てるがままに息たえし死相のごとく、生色をひそめて凝立したりしが、ややありて引き抜かるるがごとく唐突に上手坂路の一角に走り、不安なる期待の間上りくる怪体を窺視《きし》せるや、たちまちにして疑惧を明らかにしたる表情にて。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 何だそこへかけてくるのは依志子じゃないか。どうしたのだ。
[#ここから2字下げ]
依志子走り出づ。僧徒ら卑しき犬等のごとく視合《みあ》う。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
依志子 (歳三十に近く蒼白《そうはく》なる美貌《びぼう》。華《はな》やかならざれどもすずしきみどり[#「みどり」に傍点]色の、たとえば陰地に生《お》いたる草の葉のごとくなるに装いたり。妙念に縋《すが》り鐘楼に眼を定め息を切らしつつ)妙念様――鐘は、鐘はどのようでございます。(異変なきさまを見得てやや心落ちつきしがごとく、はじめて妙念の血の色に気づき驚き身を退りつつ)ああ、血が――
妙念 鐘は見る通りまじないほどのひびも入らぬ。(再び怪体なる驕慢《きょうまん》の微笑)その上にもう悪蛇は血の汁も出なくなって、皮ばかりにひしゃげた首をあすこの石の間に垂れているわ。
[#ここから2字下げ]
依志子|愕然《がくぜん》たる表情。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 (妙念語り止《や》むことなく)久遠までかかっていた邪婬《じゃいん》の呪いが二十年しかたたぬ今夜、とうとい祈誓の法力で風に散らされて粉のように消え失《う》せてしまったのだ。悪蛇の奴、生白い男体に僧衣をまとって呪《のろ》いに来たのだが、お前の一念がこの鐘を鋳上げたばかりに、己の指の爪という爪にもありがたい仏身の力が充《み》ち満ちて、執念深い鱗の一とひらまで枯葉のように破り散らしてくれたのだ。
依志子 (傷《いた》ましげに妙念のものいえるをうちまもり、また不安なる態に周辺を顧みて)そんなことをおっしゃって、やっぱりそれが悪蛇ではございませぬ。あの銀のようにつめたい蛇身から、生赤い血の汁なぞが流れようもありませぬし、何よりも私は、まのあたり上って来る姿にあったのでございます――
妙念 (焦ら立ち迹りて)己のたたきひしいだのが悪蛇ではない?――(下手の森の方を一瞥《いちべつ》し、また)その上ってくるのにお前があったというのはいつだ。どこで見たのだ。
依志子 川の、日高川の傍で。三人の鬼女に分れてお山へ消えて行くのを追いながら、私はかけ上って来たのですから、もうどのようにしてもこのあたりへ来ている時でございます。(再び妙念に縋り)妙念様。どうぞ気を鎮《しず》めて下さいまし、いよいよ最後の時が参りました。
[#ここから2字下げ]
妙念は不安に刻まるるがごとく、ともに周辺を眺めたりしが、僧徒らの姿を見るやまたあららかに、
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
妙念 お前たちは本門の傍で見張りをしているのだ、また眠りこけてなんぞいると、総身の膚膩《ふに》が焼き剥がれて生きながら骸骨《がいこつ》ばかりになってしまうのだぞ。早く行け、何をぐずぐずしているのだ。
[#ここから2字下げ]
僧徒ら影のごとく黙して後の坂路より降り行く。
依志子の動白は必ずしも恐怖の色に満たず。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
依志子 あんな人たちが見張りに行ったって、もう何の益《やく》にも立ちはしませんのに。
妙念 だがお前はどうしてその姿を見たのだ。川の傍へどうして行ったのだ。
依志子 ほんとに私は思いもかけず恐ろしい姿を見たのでございます。この鐘が始めて響いて来ましたのは、まだ月も赤い色をして、夕やみに濡《ぬ》れた草葉の吐息がしっとり[#「しっとり」に傍点]とした匂《にお》いを野に撒《ま》いている時分でございました。それまでは数知れぬ怖《おそ》れと気づかわしさとが血管《ちくだ》の中を針の流れるように刺しまわって、小さな瞬《めばたき》をするにも乳までひびくようでございましたが、あの音が一つ一つ幾重の網を重ねたお山の木の葉からのがれて、月の色まで蒼白《あおじろ》く驚かして行くのかと思うほどおおどかに、ひびいて来るのをきいておりますうち、だんだん恐ろしい呪いも何も忘れて、ちょうど血吸い女《め》につかれた人たちのようにふらふらと家を出て参りました。あとからあとからとひびく鐘の音が、海の潮でも胸にぶつ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
郡 虎彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング