道成寺(一幕劇)
郡虎彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)相《すがた》

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(例)道成寺|和尚《おしょう》

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(例)顧※[#「目+乏」、25−上−1]
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人物

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道成寺|和尚《おしょう》  妙念
僧徒     妙信
僧徒     妙源
僧徒     妙海
誤ち求めて山に入りたる若僧
女鋳鐘師  依志子
三つの相《すがた》に分ち顕《あら》われたる鬼女  清姫

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今は昔、紀ノ国日高郡に道成寺と名づくる山寺ありしと伝うれど、およそ幾許《いくそばく》の年日を距《へだ》つるのころなるや知らず、情景はそのほとり不知の周域にもとむ。
僧徒らの衣形は、誤ち求めて山に入りたる若僧を除き、ことごとく蓬髪《ほうはつ》裸足《はだし》にして僧衣|汚《よご》れ黒みたれど、醜汚の観を与うるに遠きを分とす。
全曲にわたり動白はすべて誇張を嫌《きら》う。
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     場面

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奥の方一面谷の底より這《は》い上りし森のくらやみ[#「くらやみ」に傍点]、測り知らず年を経たるが、下手《しもて》ようように梢《こずえ》低まり行きて、明月の深夜を象《かたど》りたる空のあお[#「あお」に傍点]色、すみかがやきて散らぼえるも見ゆ。上手《かみて》四分の一がほどを占めて正面の石段により登りぬべき鐘楼|聳《そび》え立ち、その角を過れる路《みち》はなお奥に上る。下手舞台のつくる一帯は谷に落ち行く森に臨み、奥の方に一路の降るべきが見えたり。下手の方、路の片隅《かたすみ》によりて月色|渦《うず》をなし、陰地には散斑《ばらふ》なる蒼《あお》き光、木の間を洩《も》れてゆらめき落つ。風の音時ありて怪しき潮のごとく、おののける樹《き》々の梢を渡る。
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     第一段

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誤ち求めて山に入りたる若僧と僧徒妙信とあり。若僧が上手鐘楼の角により奥の方を伺える間、妙信は物おじたる姿にて中辺に止まり、若僧のものいうをまつ。不安なる間。
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若僧 (女人の美を具《そな》えたる少年、齢《とし》二十に余ることわずかなれば、新しき剃髪《ていはつ》の相《すがた》傷《いた》ましく、いまだ古びざる僧衣を纏《まと》い、珠数《じゅず》を下げ、草鞋《わらじ》を穿《うが》ちたり。奥の方を望みつつ)やっぱり和尚様でございます。ちょうどいま月の流れが本堂の表へ溢《こぼ》れるようにあたっているので、蒼い明るみの真中へうしろ向きに見えて出ました――恐ろしい蜘蛛《くも》でも這い上るように、一つ一つ段へつかまりながら――
妙信 (年齢六十に近く白髯《はくぜん》を蓄《たくわ》え手には珠数を持てり。若僧のものいえる間ようよう上手に進み行きついに肩を並べつつ)今さっき本門の傍で呻《うめ》いていると思ったが、いつのまにか上って来たのだな。ああして狂気の顔が、水に濡《ぬ》れたされこうべ[#「されこうべ」に傍点]のように月の中へ浮んで、うろうろ四辺《あたり》を振り向いた様子は、この世からの外道ともいおうばかりだ。
若僧 あ、――
妙信 あんなに跳《おど》り込んで、また本堂の片すみにつく這いながら、自分の邪婬《じゃいん》は知らぬことのように邪婬の畜生のとわめくのがはじまろうわ。
若僧 もう呻くような声がきこえて参ります。
妙信 (必ずしも対者にもの言うがごとくならずして)だがとやかくいうものの今夜という今夜こそ、あのように乱れた心の中は蛇《へび》の巣でもあばいたように、数知れぬむごたらしい恐れがうごめいて、どんな思いをさせていようも知れぬことだ。
若僧 (妙信に向い)ほんとに悪蛇《あくじゃ》の怨霊《おんりょう》というのは、今夜の内に上って来るのでございましょうか。
妙信 (若僧のもの問えるを知らざるがごとく、すでに鐘楼の鐘を仰ぎ視《み》て憎しげに)みんなこの鐘が出来たばかりよ。なまじ外道の呻くような音《ね》をひびかしたばかりに、山中がこんな恐ろしい思いをせねばならぬわ――
若僧 (迹りてひそやかに強く)今夜のうちにその悪霊は、きっと上って来るのでございましょうか。
妙信 (始めて顧り視て)ほんとにのぼって来ようぞ。俺《わし》にはもうじとじとした呪《のろ》いの霧が山中にまつわって、木々の影まで怪しくゆらめいて来たような気がするわ。それにしても和主《おぬし》は不憫《ふびん》なが、何にも知らずこんな山へ迷い込んで来たばかりに、遁《のが》れることも出来ない呪いの網にかかってしまったのだ。――ええ、そんな恐ろしい眼の色をせぬものよ――最前からまだ話もしなかったが、この鐘には、仔細《しさい》あって悪蛇の執念が久遠にかかっているのだ。その呪いでこれまでは作るのも作るのも、供養に一と打ちすると陶器《すえもの》のようにこわれてしまったのが、今夜ばかりはどうしてか、一つ一つに打ち出す呻き声がさっきのように谷底の小蛇の巣や蜘蛛の網にまでひびいて行ったのだから、ほんとにどのようなしかえし[#「しかえし」に傍点]が来ようも知れぬ、こんな益《やく》のない見張りをしているうちには、どこからか鱗《うろこ》の音を忍んで這い上って来るにちがいないのだ。
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間。
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妙信 (不安なる姿にて左右を顧※[#「目+乏」、25−上−1]しつつ鐘楼の石段に腰をおろして)さあ、このような恐ろしい晩に、黙っているのはよくないことだ。怪しい声音がいろいろのくらやみ[#「くらやみ」に傍点]から聞え出す、それにあの風の音よ。ここへ腰をおろして話でも始めないか。離れているとつい寒気などがして来るわ。
若僧 (立ちたるまま決意の語調)老僧様。のがれることも出来ない網にかかったと申されましたが、私はどのような障碍《しょうがい》にあいましょうと、一人で降りて行きとうございます。三善の知識が得たいばかりにわが家をもぬけ出て来ましたものを、まだ人の世の夢やかなしみ[#「かなしみ」に傍点]のはかない姿も見わけぬうち、このように不祥な霧が若やかな樫《かし》の葉にも震えている山の中で、怪しい邪婬の火に身を巻かれとうはございませぬ。私はまだこれから、いろいろの朝と夜とで満ちた命の間に、日の光りさえ及ばぬ遠国のはてまでも経歴《へめぐ》って、とうとい秘密が草木の若芽にも輝く御山を求めに行かねばなりませぬ。(嘆願の調)老僧様、どうぞ麓《ふもと》へおりる道をお教え下さいまし、ゆうべはくらやみ[#「くらやみ」に傍点]でどこをはせ上って来たのやらもおぼえませぬ。ほんとに私は今のうちにおりて行きとうございます。(顧みつつ言う)
妙信 うら若い身に殊勝な道心だが、どのようなところに行きとうても、もうこの山へ一度上った者は、それきりで降りることが出来ないのだ。これまで寺僧のうちで幾人《いくたり》もぬけ出した者はあるのだが、一人として麓へ行きついた者はない。盲目《めくら》にされても降り得ようほど案内知った道でありながら、誰も彼も行き迷うたあげく斃《たお》れてしまうのが、ほど経て道ばたへむごたらしい屍骸《しがい》になって知れるのよ。寺僧も多勢《おおぜい》いたのだが、そんな風に一人減り二人減って、今では和尚のほかにわしたち三人が残るばかりになってしまったのだ。
若僧 (絶望の悲しみを帯べる語調)それではこの山に一度上った者は、どのようにしても降りることが出来ないとおっしゃるのでございますか。もう私も、こうしてその悪霊が忍んで来るのを、怪しい息を吐《つ》きながら怖《おそ》れに汗ばんだ木や石なぞと一所に、今か今かとまつよりほかはどうすることも出来ないのでございましょうか。老僧様、私は不壊《ふえ》の知識を求めて上って来たのでございます。ゆうべも日高川からこっち誰にも人にあうことがなかったので、こんないまわしい山とは知らず、足元から崩《くず》れ落ちる真黒な山路も、物の怪《け》のような岩の間を轟《とどろ》き流れる渓川《たにがわ》も、慣れない身ながら恐れもなく、このような死人の息さえきこえぬ山奥で、金剛の道をきくばかりにほど遠い磯辺《いそべ》の家をも捨てて来たのだと思いながら、知恵のよろこびにもえ立ってひた上りに上って来たのでございます。それですのに私は、もう仔細も知らぬ呪いの網につつまれて、どのようにしても遁れることの出来ない身になったのでございましょうか。老僧様。
妙信 不愍《ふびん》なことだが草木までも呪われたこの山にはいったからは、もうどのようなことを願うても叶《かな》いはせぬ。仔細といってもやっぱりもとは邪婬の煩悩《ぼんのう》だが、もう二十年も昔になる、ちょうどこんな息の苦しい五月ごろの晩だった。思いをとげたい一心を欺かれた怨《うら》みから、清姫というようよう十四になった小娘が生きながら魔性の大蛇《おろち》になって、この山へ男のあとを追って来たのだ。和尚のはからいに男を伏せてかくまったこの鐘よ、硫黄《いおう》色の焔《ほのお》を吐きながらいく廻《めぐ》り巻くかと思ううち、鐘も男も鉛のようにどろどろ溶けてしまったわ。まだ和尚も年は若く堅固な道人の時で、見事に魔性を追い払ってはしまったが、その場のはからいに怨みを残して、執念というものがあの頭の中へ、小虫のようにかみ入って来たのだ。恋を欺された女の心ほど恐ろしいものと言うてもない。あれほどあっぱれな善知識だったのが一日一日とたましい[#「たましい」に傍点]の奥を喰み破られて、もうこのごろでは狂気のいろに変ったざまだ。その上怪しい女鐘造りの依志子というに、胎子《はらご》なぞを孕《はら》まして、邪婬の煩悩になおのこと、あんなこの世からの外道とでもいう姿になってしまったのよ。この鐘も今夜はじめて音《ね》の出るように出来はしたが、性界も知れぬ怪体《けたい》の女が、胎子と一所に鋳上げた不浄な鐘だ、あのように呻くのがひびいて行ったところには、山頂きの、月の色に燃えた杉《すぎ》の梢へでも、谷底の、岩の裂け目に咲く苔《こけ》の花へでも、邪婬の霧が降らずにはいようもないわ。
若僧 その依志子という女人が山の中にいるのでございますか。
妙信 この山の麓に鐘造りの小屋をたてて、女人の工人たちと一所に住んでいる。男に怨みをかけた呪いのためかも知らぬが、女人ばかりは自在に山の上り降りが出来るので、ゆうべもこの鐘を車につんで真黒な装束をきせた女人たちに、曳《ひ》き上げさしてのぼって来たが、恐ろしいことのあった晩から、鐘の出来た夜は女人禁制という掟《おきて》になって、今夜このあたりにも姿を見せずにいるのだ。
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間。
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妙信 (若僧に向い)まあここへじっと坐っていないかというに。そのように物も言わず立っているのを見ると、和主《おぬし》の姿まで何ぞ怪しいもののように見えて来るわ。
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若僧は最前より妙信のものいえるを顧みざるがごとく、下手の方を眺《なが》めたりしが、この時|蹌踉《そうろう》としてたましい[#「たましい」に傍点]うつけたる姿に歩み出づ。
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妙信 (不安に目覚《めざ》めたるがごとく立ち上り)どうしたのだ、どこへ行こうというのだ。
若僧 (立ち止り同じ姿にて)何の声とも知れませぬ。あ、あのようにくり返して私の名を呼ぶのが、そこの谷からきこえてまいります――
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間。不安なる凝立。
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若僧 もう何にも聞えなくなってしまいま
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