した。
妙信 心を落ちつけぬかよ、耳の迷いだ。
若僧 いいえ、か細い声でしたけれどたしかに、――ちょうど物怯《ものお》じした煙が木々の葉にかくれながらのぼってでも来るように、そこのくらやみ[#「くらやみ」に傍点]からきれぎれにきこえて来ましたのです。
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第二段
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若僧はもの言いもてなお下手に歩み出づる時、あわただしげに走《は》せ来たれる僧徒妙海と妙源とに行きあう。四者|佇立《ちょりつ》。
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妙源 (手に珠数を持たず、中年にして容姿ことごとく暴《あら》らかなり。若僧を直視するにある敵意を持ちたるが、妙信に向い)ゆうべの新入りだな。
妙信 (なお不安の姿にて)お前たちは山門の傍にいるはずなのじゃないか、何ぞの姿でも見えたというのか。
妙海 (同じく中年なれど凡常《よのつね》の容貌《ようぼう》を具え手には珠数を下げたり)まだわしらが眼には見えぬというだけのことだ。もう山中の露の色まで怪しい息にくもって来たわ。
妙信 そんなことならお前たちに聞こうまでもない。わしはまた、何ぞに追いかけられてでも来たのかと思って、無益なことに爪《つめ》の先までわなないた。このような晩にはあんまり人を驚かさぬものだ。
妙海 そうはいうもののこの路だ、くらやみ[#「くらやみ」に傍点]と月明りで、いろいろに姿をかえた木や石が慄《ふる》える指をのばすように前うしろから迫って、真実、魔性の息が小蛇のように襟元《えりもと》へ追いかけてくる気もするぞい。
妙信 だが別に悪霊の姿というても見えぬに、どうしてそんな息せいてかけ上って来たのだ。
妙源 あんなところにたった二人で、見はりなどがしていられると思うかい。
妙海 ここいらにいては考えにも及ばぬ。ちょうどおとといの地崩れに、前の杉が谷の中へ落ち込んだので、門の下に坐っていると頭から蛇の鱗のようなつめたい月の光りがひたひた[#「ひたひた」に傍点]まつわりついて、お互いに見合わす顔といえば、滴《しずく》でも垂《た》れて来そうな気味の悪さだ。物を言えば物を言うで、二人とも歯と歯の打ち合う音ばかり高くきこえて、常とは似つかぬ自分の慄え声が、何ぞに乗りつかれでもしはせぬかと思う怖ろしさに、言いたいことも言わぬうち、われと口を噤《つぐ》んでしまうのよ。するとまた、お互いに出し入れの息の音《ね》が、怪しい物の地《じ》をなめずる音《おと》のようにもきこえて来る、明るみが恐ろしさにあの藪《やぶ》の蔭《かげ》へ寄って行けば、何がひそんでいるかも見えぬ灰色のくらやみが、上から上から数知れぬ指を慄わしてざわめくじゃないか。その上に時々吹きあてる風の音が――
妙源 (最前より四辺を顧※[#「目+乏」、28−上−6]したりしが唐突に)そんな話はよさぬかい、やくたいもない。
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間。
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妙海 (また同じ調子をつづけて)言い合わしもせぬうちに、ここへ来れば和主《おぬし》がいると思って、二人とも黙ったままかけ上って来たのだが、ほんとにこんなところにいては考えにも及ばぬ恐ろしさだ。
妙信 山門の傍ばかりが恐ろしいにきまったことかい、何よりもこの鐘に悪霊の呪いがかかっているのじゃないか。こうしてまっ黒な口をあけながら物も言わぬ形を見ているうちには、さっきまでなりひびいた声より幾倍か恐ろしい邪婬の呻きが、煙のような渦をまいてあの洞《うつろ》からきこえてくるわ。
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間。
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妙海 このような恐ろしい晩は聞きも知らぬ。またいつもと同じように一と打ちで微塵《みじん》にこわれてしまえばいいに、なまじあんないやらしい呻き声がひびき出したばかりよ。
妙信 さっきからわしもこの子に言うことだ。(間)だが月もあんなにまわって、だんだん夜あけ近くなって来たが、上って来ようというのならこの上時を移すまいぞ。
妙源 こんな風に怯《おび》えながら。甲斐《かい》のない見張りをしているうちには、もうとっくに上って、どこぞ雷にさかれた巌間《いわま》にでも潜んでいるか知れぬことだ。
妙信 (かすかに語調を失いて)いいや上って来たものなら、何よりも先この鐘に異変が見えねばならぬのだ。蛇体のままでか、それとも鬼女の姿になってか、一番にこの鐘へ取り付きに来ようわ。
妙源 それにしてもいま眼の前に姿が見えたらどうしようというのだ、誰ぞ退散の法力でも持っているのかい。和尚はあんなざまだしよ。
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間。四者のみずから知らざるがごとく相寄るは、水に沈み行く稀有《けう》なる群像のさまを想《おも》わしむ。池底のごとき沈黙。
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妙源 (対者を定めず)和尚はどこへ行ったのだ。
妙信 ほんとに和尚はどこへ行ったのだろう。さっきわしらがここへ来た時、ちょうど本堂の中でいつものようにわめき始めたとこだったが、気づかぬうちに声もやんだような。だが今夜こそ峰から谷へ幾めぐり、爪を立てた野猫《のねこ》のようにはせめぐっても片時落ちついてなぞいられまいわ。
妙海 (にわかにある不安を思いつけるがごとく)和尚といえば、わしたちは山門の傍で見張りするように言われていたが、こうしてここにいる姿でも見つかろうなら、悪霊の呪いが来ないまでも、また妙良のような目にあいはせぬかの。
妙源 和尚の影がさしたら、そこの森の中へ身をかくそうまでよ。あんなぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]のような血の走った眼がぎょろぎょろしたとて、遠くから人の数なぞよめはせぬ。だがそれにしてもあの時は恐ろしかったな。妙良の奴《やつ》、つい和尚の来かかったのを知らず、依志子の腹のことを口走ったと思うと、骨ばかりの指が啖《くら》い付くようにのど元へかかって、見ているうちに目から鼻から血が流れ出すのよ。――
妙海 その話はやめにしよう。一つ一つ骨に絡《から》んだ腸でも手繰り出されるような妙良の悲鳴が、今だに耳の中で真赤な渦をまいて、思ってもぞっとするわ。
妙源 ――血でひたひたになった本堂の隅へ、悪魚の泳ぐように這いつくばって、とかげのような舌の断《きれ》を抓《むし》りながら、「執念が何だ、邪婬の外道が何の法力に叶うかい」とわめいた眼つきは――
妙信 (戦慄《せんりつ》)よさぬかというに、さもないでさえ恐ろしいこの夜更《よふ》けに、そんな話をしなくとものことじゃないか。
若僧 (唐突に妙信に向い)私はやっぱり降りて参りとうございます。たとえ行き迷うてどのような恐ろしい目にあいましても、こうして、人を沈めた沼地のようにいまわしい呪いの霧が、骨の中までしみ込んで来るところに立っているよりも、一人で路を歩いている方がいくらよいか知れませぬ。
妙海 (ほとんど何らの感情なく)もう何をいうても叶わぬわ。お前はまだ仔細も知るまいが、この山へ一度上ったからは、どのようにしても降りることは出来ないのだ。
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この時若僧ははなはだしく唐突に身を動かして、下手の方より何ものかをきき出でたるがごとき姿す。
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妙信 (刹那《せつな》に来る不安の調)どうしたのだ。
若僧 (同じ姿を保ち)怪しい物の音《ね》がきこえる。女人の髪の毛が笹《ささ》の上を流れて行くような。
他の三人 (いささか高低を違えてほとんど同時に)え――
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僧徒らはあたかもくらげ[#「くらげ」に傍点]の浮動するがごとき怪しき姿して物の音《ね》をたずねてあり。間。
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若僧 そこの杉の根元あたりで、あ、あんなに――
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長き不安なる間。若僧は歩み出でて下手谷の底へ這い下れる森林の内を伺いのぞく。間。
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妙源 何ぞ見えるのか。
妙信 (恐怖に戦《おのの》きつつ)静かにせぬかよ。
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間。
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若僧 くらやみが煙のようにわき上って来るばかりで何も見えは致しませぬ。(僧徒らの方を顧みつつ)物の音《ね》は三度目に、この根元あたりできこえたのでございますけれど。
妙源 (腹立たしげに)ええ何もきこえたのではないのじゃないか。わけもないことを言って人を驚かす奴だ。
妙海 わしにもたしかにきこえた。ちょうどつめたい鱗が笹の葉をなでるような――
若僧 (迹りて)そのような物の音《ね》ではございませぬ。やっぱり女人の長い髪が、重そうに葉の上を流れて行く音でございました。(再び森の中を見て)あすこの欅《けやき》の根元からこの裾《すそ》へかけて三度ばかりきこえました。
妙源 みんな恐ろしさに耳の中まで慄えるので、自分の血のめぐる音《おと》がいろいろな物の音《ね》にきこえるのだ。
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第三段
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この時上手鐘楼の角より和尚妙念|顕《あら》わる。僧徒らは中辺より下手の方にたたずみて背《そびら》をなしたれば知らであり。齢《とし》五十に満たざるがごとくなれど、眼《まなこ》の色、よのつねのものには似ず、面色|憔悴《しょうすい》して蒼白く、手には珠数を下げ僧衣古びたれどみずから別をなす格位を保てり。いま僧徒らの斉《ひと》しく森の方を眺め入れるを見、にわかに恐怖を見出でたるがごとく歩みを止む。若僧の顧み知りて怪しく叫ぶや、僧徒ら掴《つか》むがごとく相|集《つど》う。不安なる対立。
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妙念 悪霊の姿が見えたというのではないのか。
妙信 まだ私どもの眼に見えてはおりませぬ。
妙念 もうどうしても上って来る時分なのだ。お前たちのような奴は眼の前へ形が見える先に、煙のような忍びの音《ね》が這ってくるのを知らないのだな。己《おのれ》があの本堂の傍へ犬のようにつくばって、地《じ》をなめずるみみず[#「みみず」に傍点]のうごめくのまで見張っている間に、お前たちはこんなところでいぎたなく唇《くちびる》を弛《ゆる》ましながら、眠ってなんぞいたのじゃないか。
妙信 眠っているどころではございませぬ。耳の中をめぐる血の音《おと》や、はかない出し入れの息の音《ね》にまで、とかげ[#「とかげ」に傍点]のように怯えながら心をつけていたのでございます。ちょうどいまも、怪しいものの音《ね》がきこえるなどと申す耳の迷いから――
若僧 (激しく語を迹りて)耳の迷いではございませぬ。ちょうど女人の髪の毛が笹の上を重く流れて行くようなものの音《ね》が、あの欅の根元からここの裾へかけて、三度ばかり聞えたのでございます。
妙念 (にわかに激しく)そこにいるのは誰だ。
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間。若僧は無言に妙念を視つめてあり。
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妙信 (何物かをおそるるがごとく)ゆうべ新入りの若僧でございます。
妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
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妙信 (若僧に向い)黙っていずと、お返事をせぬかい。
妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
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妙念 何しにこの山へはいって来たのだ。
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いと長き間。若僧の眼はようように鋭き凄色《せいしょく》を帯び、妙念は怪しき焔を吐くばかりの姿して次第に蹂《にじ》り迫る。さらに長き期待の堪うべからざるがごとき場《じょ
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