な時世に、きちんとした勤め口を持つてゐないといふ事が第一にいけないらしい。やつと一軒まだ決つてゐない貸家があつた。やれ嬉しやと、早速間取その他の拝見を願ふと、お待ちなさいと来た。裏木戸を開ける鍵でも取りに行くのかと思ふと、さうではなくて、お勤めは何処ですかといふ質問なのであつた。相手は五十を過ぎてもう還暦にも近い婆さんである。眼鏡をかけてゐた。眼鏡の支へのところで太い横皺が三本くつきりとしてゐた。原稿を書いたり芝居の稽古をつけたりしてゐるので、勤めといつては別にないのですが、と正直に答へると、忽ちその横皺へ縦筋が入つて、私どもの家作はすべて拓務省大蔵省あるひは三井三菱といふやうなところへお勤めの方ばかり入つてゐられるのでして、といふ言ひ方だつた。
 売り言葉といふものがある。こんなのをいふのだらう。よろしい、売家は買へなくとも売り言葉なら買へる。ではその拓務大蔵三井三菱へ勤めてゐる人間に保証さしたら貸しますか、と私はその横皺と縦筋とこんがらかつた鼻の上の格子縞のやうなものを目がけて切り込んだ。だがなか/\そんなことで動じるやうな婆さんぢやなくほゝゝゝゝといきなり甲高い声をあげて、ぢろり
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