計をくばつてしまつたら、すぐにバグダッドの兵器庫へ廻つてくれよ。あの中に爆発薬が一ぱい入つてゐるからな。軍服はこの錫の鑵の中にあるよ。」「はい」「ほら時計はこれだ。」
「こいつは夜ふけてから持ち出しませう。」二人は蝋燭《らふそく》の灯の下にこゞまつて、こんなことを言ひながら一つの荷造りをといて、時計の函をすつかり取り出し、それを又一つにしばつて、片わきへ、おいといて出て行きました。バグダッドの兵器庫といふのはチグリス河の上流のその町の近くにある、トルコ軍の兵器庫なのです。二人が出て行つたのを見すまして、ウ※[#小書き片仮名ヲ、394−下−1]ルターは積荷の後からはひ出しました。そして、手さぐりに、時計の荷物を盗んで引つかゝへ再び高窓からすべり下りました。ともかく、これで船は、たすかつたわけです。
「ようし。おれも、かうからだが弱りきつてゐてはもういつ死に倒れるかも分らない。そのまへに、もう一ど、イギリスのために働いておかなくちや。」
ウ※[#小書き片仮名ヲ、394−下−7]ルターはかう思ひながら、まづ時計をかくす場所を探しにかゝりました。
五
ホームス牧師は、なほウ※[#小書き片仮名ヲ、394−下−10]ルターの第二の手紙をよみつゞけました。けつきよく、ウ※[#小書き片仮名ヲ、394−下−11]ルターは、ひどい病後の、よろ/\したからだをもかまはず、アデンの町へよろけ入つて、ドイツ人の倉庫から例の時計仕かけの爆発薬をすつかり盗み出すと一しよに家族たちを都合のいゝ或場所へつれて来ました。それから、家内の父親の持つてゐるモーターボウトを借り、チグリス河をさかのぼつてバスラといふ町へつきました。そして、こゝから、さらに三百マイルの間を、右手しかない、その片手でかぢをとつて、バグダッドまで乗りこんだのです。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−上−1]ルターはアデンで、運よく、爆薬と一しよにドイツの将校の軍服、軍帽をも盗み出しました。その軍服のポケットの中に、偶然一まいの見取地図がはいつてゐました。その地図に、ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−上−4]ルターの目ざすバグダッドの、トルコ軍の火薬庫の位置が、はつきりと、かき入れてありました。ですからウ※[#小書き片仮名ヲ、395−上−6]ルターには、もう、仕事は、バグダッドへ入りこむだけで十分なわけでした。
いよ/\バスラを出発した後も、幸にモーターの調子も終始狂はず、七日目の朝のしら/\あけに無事に、バグダッドの町へつきました。
あたりの家々がまだ寝しづまつてゐるので好都合でした。ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−上−12]ルターは荷包みの一つから、軍服や、軍帽を取り出して、すつかりドイツの士官になりすましました。そして、傲然《がうぜん》と、河岸のアラビア人の家をたゝきおこし、トルコ軍の火薬庫へ重要貨物をはこぶについて、数人の人夫がいる、すぐにそろへ集めろと命令しました。例の爆発時計だけでは、あやしまれる気づかひがあるので、わざと、ほかに、弾薬と見せかけて、重みのある、大きな荷物をも持つて来たのでした。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−上−19]ルターは、それ等の荷物を、すつかり人夫たちの背中にせおはせて、兵器庫へ向つて出かけました。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−1]ルターは、途中の休息時間を、たくみに延びちゞめして、わざと、丁度夜になるころに、目的の火薬庫へつきました。警戒についてゐるトルコ兵たちは、むろん、ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−3]ルターをドイツの士官とおもひこんで、丁寧に迎へ入れ、ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−4]ルターの命ずるまゝに、すべての荷物を、大火薬庫の中へ入れこみました。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、365−下−7]ルターは、それを見とゞけると、すぐに、もとの河岸へ引きかへし、アラビア人の家で軍服をぬぎ、夜の十二時が来るまで、ひそんでゐました。火薬庫に入れこんだ、いくつもの爆発の時計は、その時間に、かけておいたのです。ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−10]ルターは十二時少しまへに、モーターボウトに乗りこんで、船首を河下へ向け、かぢ[#「かぢ」に傍点]をにぎつて、まちかまへてゐました。時計にたいしては、すでに、こつそりと、十分の試験がしてあるのです。
もう五分、三分、二分、ほら一分と、いふとき、ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−15]ルターは急いで、スタートを切つて走り下りました。
と、間もなく、ドドンと大地そのものがさけわれるやうな大爆音と地ひゞきと一しよに、町の上空へ真つ赤な炎の噴出がひろがりました。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、395−下−20]ルターは、無難に家族のところへかへつて来ました。
「アラビア人の遊牧民は、これでつくすべき仕事をしとげました。しかし、そのために、彼は疲労の極、再び、もとの重病人にかへりました。彼は今はたゞ一念、彼の間もなく迎へらるべき世界をのみ考へつゝ横はつてゐます。牧師どのよ、かうしてゐる彼の、その単一なる感情こそ、たとへ方なく、おごそかな貴いものです。
彼は、生前、いろ/\の誤解をもうけました。神さまも、かつては彼のためには怖れでした。しかし彼は、今は、何等の、ためらひもなく神のみもとに歩み上らうとしてゐます。おゝ、この栄光よ。彼は最早、神のめぐみの永久なることを信じてうたがはないのです。」
第二の手紙は、これで終つてゐます。ホームス牧師は、息をもつかずに、第三の手紙に移りました。それは、一九一七年八月八日といふ日附になつてゐます。
たび/\言つたとほり、これまでウ※[#小書き片仮名ヲ、396−上−15]ルターは、すべて自分といふものを秘めかくし、このはじめからのすべてを、彼自身にそつくりそのまゝの、或遊牧民上りのアラビア人の乞食の行動として、報告してゐるのでした。ところが今度の三ばん目のこの手紙では、急に当面の人物が「私」になつてゐるから争へません。
「牧師どのよ。私は、最早いよ/\よわりつくしてしまひました。しかし、みじんも、怖れや不安はありません。すべての人は、死そのものに直面するとだれでも、このやうな平穏を見出すのだらうと信じます。トルコ兵の塹壕《ざんがう》内を聾の唖となつてさまよつてゐた間も、ドイツの士官となつて火薬庫の戸外に立つたときも、私は今と同じく平静でした。しづかに死に対面するといふことは、すべての人に共通の心状とおもはれます。たゞ、だれも、その間際が来るまでは、それを実証し得ないまでのことです。
たゞ一つ、私の妻と小さな三人の子どもとが、私と一しよに移り行くことが出来たなら、私はどんなに、より幸福でせう。しかしそれが叶はないことを私は少しも恨みとはしません。私は、今、たえだえの息の下にこの手紙をかくのです。昨夜はかきながら昏倒しました。おそらく私のこの最後の間際に、あなたとかうしてお話をすることは、実に無上の愉快です。おゝ、わが故国をして、神のみめぐみによつて、永遠にすべての海上を支配せしめよ。私はこれ等の手紙が安全にあなたのお手に入る方策をとります。植物の標本ならば、するどく検査もしないでせう。
あけて今日は八月九日です。妻の父は、私の三人の子供を、彼自身のうちへ、つれていきました。妻はこれから私を、馬の上にかゝへのせ、手綱をひいて、医師のところへはこばうとしてゐます。私は地びたに横はつて、これをかく。さやうなら、さやうなら、牧師どのよ。」と、大部分は、ふるへた字で、かすれ/″\にかきつゞけてあります。
六
牧師にとつてはこの手紙が事実上、とう/\彼の最後のわかれの言葉になりました。つぎに牧師がメソポタミヤから受取つたのは、或英人の病院の医者がよこしたもので、はッと思つたとほり、つまり、ウ※[#小書き片仮名ヲ、397−上−10]ルターの死去のしらせでした。
「二週間前に、丁度一人のアラビア人の婦人が、その夫だといふ英人の一患者を、当病院につれて来ました。病人は、はげしい赤痢にかゝつたあとで、極度に衰弱してゐました。どうしてか、最近左腕を切断された彼は、なほ、からだ中、いたるところに火傷をしてゐました。
アラビア婦人は、片ことの英語で、この夫が、一年ばかりの間、メソポタミヤに出征中の英国軍のために働いてゐたと語り、なほ、貴牧師からおくられた一通の書簡を見せました。しかし彼女は、その貴翰を、二人のための、この上なき貴重な記念としてゐる容子で、たゞ、ちよつと私どもに見せたきり、すぐに、しまひこんで、つひに二度とは見せませんでした。患者は、手あての甲斐もなく、八月二十六日に死亡しました。
あはれなるはアラビア婦人でした。彼女は、アラビア人としては容貌のよい、品位ある女で、夫には命をもかけて、尽してゐたらしく、今度も、七十マイル以上のところから、はる/″\つれて来たのです。夫の死を見た彼女の悲痛は、全く言葉につくすことが出来ません。彼女は、夫の埋葬された塚の上に、十八時間も伏して泣いてゐました。そこへ、たま/\彼女の父なる、回々教の一長老が出て来ました。この父が数時間かゝつて、やうやく彼女を引きおこしてつれていきました。去るにのぞみ、彼女は、われ/\の努力、それは、もとより、小さな当り前の任務であるにかゝはらず、それを、涙をもつて、ひどく感謝しつゞけました。」
この女そのものにも感激したホームス牧師は、すぐにこの医師にたのんで、その行くへをさぐつてもらひました。しかし、長老はその後、間もなく全財産を売りはらひ、ウ※[#小書き片仮名ヲ、397−下−19]ルターの遺妻と三人の子供とをつれて、どこへか遠く漂泊し去つたというのみでそれ以上、何の手がゝりもありませんでした。
牧師へのウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−2]ルターの手紙だけでは、むろん、彼が語つてゐる、全事実の真偽が、疑へば疑はれないこともないわけですが、この医師の手紙によつて、すべてが十分符合するところへ、たま/\、なほ一通、さきに、牧師がウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−5]ルターを乗組員に托した、あの貨物汽船の船長から次のやうな報告が来ました。
「かのウ※[#小書き片仮名ヲ、398−上−8]ルターが、コロンボで下船して遁走しましたことは、すでにお話ししましたが、その後、私は、最近、はからずも、アデンの、チグリス河の河岸で彼に出会ひました。彼はアラビヤ人の遊牧民に仮装してゐましたので、彼の方からよびかけられなかつたら、私は全然気づかないでしまふところでした。その異やうななり[#「なり」に傍点]をした彼は、河岸につないだぼろけたモーターボウトの破損箇所へ、いかけ[#「いかけ」に傍点]をしてゐました。彼は、おゝ船長と、全で毎日会つてゐる人にいふやうに、のんきに私をよびかけました。私はあまりの意外に、びつくりしました。
何だつて、そんなざま[#「ざま」に傍点]をしてるのだ、と聞きますと、だつて遊牧民になつたんだから仕方がないと言ひます。どうしたのだ、その左の手はと私は、これにも、おどろいて聞きました。着物の左手が、空つぽで、ふは/\してゐたからです。すると、彼はこれはトルコ人に聞いてくれないと分らない、少しばかりイギリスのために動きまはつたもので、と答へます。――何をしたんだ。――何だつていいよ――で、そのボウトで、どこかへいくのか。――商ばひで、バスラまで――何を売りにいくのだ。――機械じかけの玩具と、軍服と、それからまだいろ/\のものを売りつけにいくんだ。――ふうん、それが、バスラではけ[#「はけ」に傍点]るかね。――さああんまり、よろこびもしまいけれど。――彼はかう言つて、にた/\笑ひながら、何か悪企でも抱いてゐるやうなずるい笑ひを見せて河岸へ上つていきました。これだけです。彼からは、コロンボでの下船以来、それとも最近に何か音信が来ましたか。」
船長はウ※[#小書き片仮名ヲ、398−下−13]ルターを国家のためにあれだけのりつぱな手柄をした勇士とは思はず
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