らずトルコ兵の陣営の中を、さまよひ歩きました。
そのうちに彼は再びイギリスの軍司令部へぶらりと出て来ました。そのときには彼の左手は、指先の傷口から毒がはいつて、手くびの上まで腐りおちてゐました。イギリスの軍医は仕方なく、その左の片腕を切り落しました。
すると、ふしぎにも、それ以来、乞食は急に口がきけるやうになりました。彼は司令官に向つてトルコ軍の作戦計画を話しました。軍の配置やすべての砲台の位置をもくはしく、はつきりと述べました。
彼にも、この報告がイギリス軍にとつて、どんなに貴重なものであるかゞ、分つてゐました。このためにイギリス兵のいかに多くが、むだな死から救はれるか分りません。しかし、反対に彼の命は最早だん/\に亡びかけてゐます。彼は、いたるところで止むなく腐り水を飲んだのがたゝつて、腕の切断にひきつゞき、はげしい赤痢にかゝつてゐます。
軍医たちは一生けんめいに彼の治療と看護とにつとめてゐました。しかし彼はアゼン市の近くにある小さな村の名前を告げ、そこへかへれば、きつと病気もなほる、そこには彼の妻と、三人の、かはいゝ子供たちがまつてゐるのだと語りました。
彼の妻は白人ではありません。もし彼がその妻をイギリスへつれかへつたら、人々は、彼女に向つて嘲笑の鼻をそらすでせう。しかし彼女は百合の花のごとく純潔です。その心根は黄金のごとくに光つてゐます。読むこともかくことも出来ない無教育な女ですが、それでも彼女は、彼の三人の子供、女の子二人に小さな男の子と、その三人の子供とともに、彼に取つては、すべてのものです。彼はその妻と子供たちとに会ひたくて、一ときも、じつとしてゐることが出来なくなりました。彼は最早彼のつくすべき任務をはたしたのです。ですから彼は、思ひ切つて、或夜、メソポタミヤのそのイギリスの軍営をぬけ出しました。今彼は半分以上死骸ともいふべき、よろ/\のからだを、虫がはふごとくに彼の妻子のもとにはこんでゐます。おゝ、神の恵みのありがたさよ。彼の妻子は間もなく彼を迎へよろこぶでせう。これこそ、彼等の熱愛なこの迎へこそ、彼のためにすべてを償ふに十分です。牧師殿。あなたの御幸福をお祈りします。さやうなら。」
三
ホームス牧師は、又或日、植物見本として、ごは/\の草つ葉や、干からびた木の葉を一とくるめに巻きこんだ小包を受けとりました。トルコ領メソポタミヤの消印があるので、むろん、すぐに、ウ※[#小書き片仮名ヲ、390−下−6]ルターからだとは感づきましたが、それにしても、こんな草つ葉なぞを何の意味でよこしたのだらうと、けゞんに思ひながら、注意ぶかく葉つぱを、ほどきのばして見ますと、しまひに草の間から、古けた紙にかいた手紙を小さくちぎつたのが、かたまつて出て来ました。
「ふゝん、かうして検閲官の目をくらませたのだな。」と牧師は胸ををどらせながら、苦心をして、そのきれ/″\を、すつかりつなぎ合せました。するとけつきよく三通の完全な手紙が出来上りました。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、390−下−15]ルターは例の片腕を切り落された貴い愛国の勇士を、やはり、じぶんだとは言はず、どこまでも、或知合ひの、遊牧民上りのアラビア人としてかき続けてゐるのでした。
「親愛なる牧師殿よ。かの片腕のアラビア人は赤痢のためにおとろへつくした、敗残のからだ[#「からだ」に傍点]を引きずつて、とう/\アデンの町までたどり着きました。赤やけた夕日は丁度あたりの棕梠の林の上に沈みかゝつてゐました。
彼は最早、これ以上歩くことも出来ないため、虫のやうに、はひずりながら、そこから少し先の村にある、彼の家を目ざして、にじり動きました。彼は月光のみなぎつた砂地を横ぎつて、やつとのおもひでわが家のそばの林の下まで来ました。もう一と息でその林をくゞり出れば、彼のこひしい妻と三人の子供との手を取ることが出来るのだと思ふと、半死人のごとくに、へと/\になつた彼自身の中に、急にあたらしい命が注ぎ入れられたやうに元気づきました。彼は思はず立ち上つて走り出しました。しかし林をくゞりぬけると同時に、彼は、あッと叫んで倒れころがりました。彼の家は、すつかり焼け落ちて灰のかたまりだけになつてゐるではありませんか。彼はおどろきのあまり、そのまゝ気絶してしまひました。
牧師殿よ、しかし神のお恵みのありがたさ。彼はやがて、何だか真つ黒な眠りから目ざめるやうな気持で、かすかに目を見ひらきました。まだ、すべてが、わけの分らない夢のやうで、はつきりしませんでしたが、ともかく彼はだれかの膝の上にかき抱かれて両手をかたく握られてゐました。変だなと、ぼんやり気づいたとき、彼の顔の上へ、ぽた/\と熱い涙がしたゝり落ちました。
「おゝ、あなたよ。」と喜ぶ、女のアラビア言葉は、まがひもない、やさしい彼の妻の声でした。彼女は彼の耳に口をつけて、さゝやき、再び彼を、この村での、もとの唖にさせてしまひました。しばらくして彼女は彼を背中におぶつて歩き出しました。それから、途中でいくどとなく彼を下して休ませ休ませしながら、つひに、五六マイルはなれた、彼女の父親の家へはこびこみました。
彼の気分がやつとたしかになつたとき、妻は彼の家が焼かれたいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を話しました。数週間前の或午後、騎馬のトルコ兵の一隊が北の方から彼の村へやつて来て、危険だから、すぐに沙漠の中へ立ちのけとやさしく彼女たちに言ひわたし、着のみ着のまゝで追ひ立てたものださうです。彼女は沙漠の上に夜が下りかゝるのをまつて、子供たちをつれて家のやうすを見にかへると、家はいつの間にかすつかり焼きはらはれてゐたのだといひます。
村の女たちの話では、トルコ兵は家々の中へはいりこんで、値のあるかぎりのものをすつかり掠奪し、小さな畠の作物や、コーヒーのとりいれをまで、こと/″\くうばひとつた後、家をやきはらつて行つたのださうでした。
彼女は仕方なしに三人の子供を母親のところにあづけ、焼けのこつた或家に、一人で身を寄せて、あくる日からまいにち、昼も夜も、つゞけさまに彼女の家の焼けあとに坐つて彼がかへつて来るのを待つてゐたのでした。戦争前から、どこにゐるのか、たゞの一どもたよりをよこさない彼が、何といふわけもなく、きつと今にも、ひよつこりと帰つて来るやうな気がして、一日に一度、夕方に食事にかへる以外には、たえず、あの林の下で待ちくらしてゐたといふのです。
ふしぎにも彼は全くそのとほり、かうして彼女の下に、彼の最愛な三人の子供の下に、かへつて来たのです。
彼は今、百合の花のごとくに純情な彼の妻と、小猫のごとくに可愛らしい子供たちとにまもられて、無限の幸福の下に、少しづゝ健康をとりかへしてゐます。しかし、僅かな体力が再び彼にかへるにつれて彼は、又つぎの任務を――イギリスのために尽すべき最後の努力を考へ夢みてゐます。」
第一の手紙はこれで終つてゐます。ホームス牧師はいつしか目に涙をにじませながら、つぎの一通をとり上げました。
四
ウ※[#小書き片仮名ヲ、392−下−2]ルターは再びよろ/\歩けるやうになると、すぐにアデンの町へ出かけました。そしてトルコ兵やドイツ人たちの隠謀について、何をか探り出す機会を得ようと狙ひながら、或市場の人ごみの中に立つてゐました。
彼は、又もとの、唖と聾の乞食に化けてゐるのでした。
ふと見ると、目のまへの町角に、並はづれて高い商家の建物があります。ウ※[#小書き片仮名ヲ、392−下−8]ルターは、ふと、数年前までの彼の、狂人じみた病癖をおもひ出しました。前にもお話ししたやうに、彼はイギリスにゐた時分には、こんなたかい屋根を見ると、どうしてもがまん[#「がまん」に傍点]がしきれなくて、いきなり雨樋につたはつてかけ上り、窓のあいてゐる屋根裏の部屋へとびこんだものです。別に何も物を盗むためではありません。たゞわけもなく高いところへよぢ上り、一ばんたかい部屋へとびこんで見たいだけの慾気なのです。そのために彼は泥棒未遂罪としてつかまつて、九回も牢屋にたゝきこまれたものでした。
彼は今、目のまへの建物の、たかい雨樋を目で見計りました。そしてもう今は切り落されてない、左手のつけ[#「つけ」に傍点]根のあたりを、さびしく見入つてゐました。
すると、ふと、そのたかい屋根の上から、ミヤオ/\といふ、おびえたやうな小猫の声が聞えて来ました。おやと思つて、あとしざりをして屋根の上を見ますと、小さな一ぴきの小猫が、前後も考へないで冒険して、その高屋根の上までのぼつたものゝ、下りるには、足がゝりがないために、ミヤオミヤオと人のたすけをもとめてゐるらしいのです。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−上−7]ルターは思はず雨樋の下までかけつけました。それから、ちよつと立ちどまつて、又、ない左手の肩先をふりかへりましたが、つぎの瞬間には、右手一本で雨樋につかまつたと見ると、まるでりす[#「りす」に傍点]かなぞのやうに、ものゝ四十秒もたゝないうちに、もう屋根のはしのところまでかけ上り、小猫をつかまへて上着のふところ[#「ふところ」に傍点]に入れました。そしてする/\ッと下りて来て、小猫を地びたにおいてやりました。
あたりの人はびつくりして、目を見はつて見てゐました。
その群集の中に、ふと二人のドイツ人がゐました。二人は、たゞの小猫一ぴきをたすけるために、こんなあぶないまね[#「まね」に傍点]をする乞食のばか[#「ばか」に傍点]さ加減を嘲るやうに、ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−上−17]ルターの顔をふりかへりながら向うへ歩いていきました。
ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−上−19]ルターはドイツ人を見ると、すかさず、そのあとを、つけていきました。二人は、ゆつくり歩きながら、しきりに何事をか話しつゞけてゐます。やがて、或さびしい脇道へはいりました。と、向うに一棟の倉庫が見えます。ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−2]ルターは、あとをつけてるのだと感づかれないやうに、わざと二人を追ひぬいて、倉庫の前へ来て地びたに坐りました。そして丁度お午なので、マホメット信者のすべてがするやうに、その場にひれ伏して神さまにお祈りを上げてゐました。ドイツ人二人は、そのそばを通りかゝりました。一人は、畜生、往来の邪魔をする、といはないばかりに、靴の先でウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−8]ルターの肩先を蹴りのめして通りました。ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−9]ルターは、それでも顔も上げないで一生けんめいに祈りつゞけてゐました。
ドイツ人たちは、ふとウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−11]ルターから二三歩はなれた片わきに立ちどまりました。彼等はドイツ語なぞを聞きわけるはずもないアラビア人の乞食とおもつてばかにしたのかウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−13]ルターのゐる前をもかまはず間諜としてのいろんな秘密の相談を大びらに話しつゞけました。じいつと、頭を下げたなり聞いてゐますと、二人は、今晩、この倉から時計をとり出して、すべての英国船の石炭庫へ入れこむ計画をしてゐるのです。それには、やはりアラビア人の石炭人夫を使ふ外はないと、最後に一人が言ひました。ウ※[#小書き片仮名ヲ、393−下−19]ルターは、その時計といふ言葉を聞いて、ぞくりとしました。時計と言つたつて無論ただの時計ではありません。爆発薬に、時計仕かけの発火器をつけたもので、船が出帆してから、幾時間目に海上で爆発させようといふ、その時間を、早くいへば、目ざましの針のやうなものに合せておくとおもひどほりに、ドドンと発火する、おそろしい爆破道具なのです。その晩、ウ※[#小書き片仮名ヲ、394−上−5]ルターは、あたりが暗くなるとすぐに、こつそりとその倉庫の雨樋をつたはつて、高窓から二階へしのびこみました。それから、下へ下りて、荷物のかげにかくれてゐました。すると、はたして、昼間のドイツ人の間諜二人が、入口をあけてはいつて来ました。
「では君はこの時
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