は、そのお歌を聞いて、たまりかねて泣《な》きだしました。その涙《なみだ》で、赤色にすりそめた着物の袖《そで》がじとじとにぬれました。そして泣き泣き歌って、
「ああああ、これから先はだれにすがって生きて行こう。若《わか》い女の人たちは、ちょうど日下《くさか》の入江《いりえ》のはすの花のように輝《かがや》き誇《ほこ》っている。私《わたし》もそのとおりの若さでいたら、すぐにもお宮で召《め》し使っていただけようものを」と、こういう意味をお答え申しあげました。
 天皇はかずかずのお品物をおくだしになり、そのままおうちへおかえしになりました。

       三

 またあるとき天皇は、大和《やまと》の阿岐豆野《あきつの》という野へご猟《りょう》においでになりました。そして猟場《りょうば》でおいすにおかけになっておりますと、一ぴきのあぶが飛《と》んで来て、お腕《うで》にくいつきました。すると一ぴきのとんぼが出て来て、たちまちそのあぶを食《く》い殺《ころ》して飛《と》んで行きました。
 天皇はこれをご覧《らん》になって、たいそうお喜びになり、
「なるほどこんなふうに天皇のことを思う虫だから、それでこの日本のことをあきつ島というのであろう」という意味をお歌に歌っておほめになりました。とんぼのことを昔《むかし》の言葉《ことば》ではあきつと呼《よ》んでおりました。
 そのつぎにはまた別のときに、大和《やまと》の葛城山《かつらぎやま》へお上りになりました。そうすると、ふいに大きな大いのししが飛び出して来ました。天皇はすぐにかぶら矢《や》をおつがえになって、ねらいをたがえず、ぴゅうとお射《い》あてになりました。すると、ししはおそろしく怒《いか》り狂《くる》って、ううううとうなりながら飛びかかって来ました。それには、さすがの天皇もこわくおなりになって、おそばに立っていたはんのきへ、大急ぎでお逃《に》げのぼりになり、それでもって、やっと危《あぶな》いところをお助かりになりました。
 天皇はそのはんのきの上で、
「ああ、この木のおかげで命びろいをした。ありがたいありがたい」とおっしゃる意味を、お歌にお歌いになりました。

       四

 天皇はその後、また葛城山《かつらぎやま》におのぼりになりました。そのときお供の人々は、みんな、赤いひものついた、青ずりのしょうぞくをいただいて着ておりました。
 すると、向こうの山を、一人のりっぱな人がのぼって行くのがお目にとまりました。その人のお供の者たちも、やはりみんな、赤ひものついた、青ずりの着物を着ていまして、だれが見ても天皇のお行列と寸分《すんぶん》も違《ちが》いませんでした。
 天皇はおどろいて、すぐに人をおつかわしになり、
「日本にはわしを除いて二人と天皇はいないはずだ。それだのに、わしと同じお供を従えて行くそちは、いったい何者だ」と、きびしくお問いつめになりました。すると向こうからも、そのおたずねと同じようなことを問いかえしました。
 天皇はくわッとお怒《いか》りになり、まっ先に矢をぬいておつがえになりました。お供の者も残らず一度に矢をつがえました。そうすると、向こうでも負けていないで、みんなそろって矢をつがえました。天皇は、
「さあ、それでは名を名乗れ。お互《たが》いに名乗り合ったうえで矢を放とう」とお言い送りになりました。向こうからは、
「それではこちらの名まえもあかそう。私《わたし》は悪いことにもただ一言《ひとこと》、いいことにも一言だけお告げをくだす、葛城山《かつらぎやま》の一言主神《ひとことぬしのかみ》だ」とお答えがありました。天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、
「これはこれはおそれおおい、大神《おおかみ》がご神体をお現わしになったとは思いもかけなかった」とおっしゃって、大急ぎで太刀《たち》や弓矢《ゆみや》をはじめ、お供《とも》の者一同の青ずりの着物をもすっかりおぬがせになり、それをみんな、伏《ふ》し拝《おが》んで、大神《おおかみ》へご献上《けんじょう》になりました。
 すると大神《おおかみ》は手を打ってお喜びになり、その献上物《けんじょうもの》をすっかりお受けいれになりました。それから天皇がご還幸《かんこう》になるときには、大神《おおかみ》はわざわざ山をおりて、遠く長谷《はつせ》の山の口までお見送りになりました。

       五

 天皇はつぎにはまたあるとき、その長谷《はつせ》にあるももえつきという大きな、大けやきの木の下でお酒宴《さかもり》をお催《もよお》しになりました。
 そのとき伊勢《いせ》の生まれの三重采女《みえのうねめ》という女官《じょかん》が、天皇におさかずきを捧《ささ》げて、お酒をおつぎ申しました。すると、あいにく、けやきの葉が一つ、そのさかずきの中へ落ちこみました。采女《うねめ》はそれとも気がつかないで、なおどんどんおつぎ申しました。天皇はふと、その木の葉をご覧《らん》になりますと、たちまちむッとお怒《いか》りになって、いきなり采女《うねめ》をつかみ伏《ふ》せておしまいになり、お刀をおぬきになって、首を切ろうとなさいました。采女《うねめ》は、
「あッ」と怖《おそ》れちぢかんで、
「どうぞ命《いのち》だけはお許しくださいまし。申しあげたいことがございます」と言いながら、つぎのような意味の、長い歌を歌いました。
「このお宮は、朝日も夕日もよくさし入る、はればれとしたよいお宮である。堅《かた》い地伏《ぢふく》の上に立てられた、がっしりした大きなお宮である。お宮のそとには大きなけやきの木がそびえたっている。その大木《たいぼく》の上の枝《えだ》は天をおおっている。中ほどの枝は東の国においかぶさり、下の枝はそのあとの地方をすっかりおおっている。上の枝のこずえの葉は、落ちて中の枝にかかり、中の枝の落ちた葉は下の枝にふりかかる。下の枝の葉は采女《うねめ》が捧《ささ》げたおさかずきの中へ落ち浮《う》かんだ。
 それを見ると、大昔《おおむかし》、天地がはじめてできたときに、この世界が浮き油のように浮かんでいたときのありさまが思い出される。また、神さまが、大海《たいかい》のまん中へこの日本の島を作りお浮かべになった、そのときのありさまにもよく似《に》ている。ほんとは尊《とうと》くもめでたいことである。これはきっと、後の世までも話し伝えるに相違《そうい》ない」
 采女《うねめ》はこう言って、昔《むかし》からの言い伝えを引いておもしろく歌いあげました。天皇はこの歌に免《めん》じて、采女《うねめ》の罪を許しておやりになりました。すると皇后もたいそうお喜びになって、
「この大和《やまと》の高市郡《たかいちごおり》の高いところに、大きく茂《しげ》った広葉《ひろは》のつばきが咲《さ》いている。今、天皇は、そのつばきの葉と同じように、大きなお寛《ひろ》い、そして、その花と同じように美しくおやさしいお心で、采女《うねめ》をお許しくだすった。さあ、この貴《とうと》い天皇にお酒をおつぎ申しあげよ。このありがたいお情けは、みんなが後の世まで永《なが》く語り伝えるであろう」と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。 
 それについで天皇も楽しくお歌をお歌いになり、みんなでにぎやかにお酒盛《さかもり》をなさいました。
 采女《うねめ》は罪を許されたばかりでなく、そのうえに、さまざまのおくだし物をいただいて、大喜びに喜びました。
 天皇はしまいに、おん年百二十四歳でおかくれになりました。
[#改頁]


 うし飼《かい》、うま飼《かい》

       一

 雄略天皇《ゆうりゃくてんのう》のおあとには、お子さまの清寧天皇《せいねいてんのう》がお立ちになりました。天皇はしまいまで皇后をお迎えにならず、お子さまもお一人もいらっしゃいませんでした。
 ですから天皇がおかくれになると、おあとをお継《つ》ぎになるお方がいらっしゃらないので、みんなはたいそう当惑《とうわく》して、これまでのどの天皇かのお血筋《ちすじ》の方をいっしょうけんめいにお探《さが》し申しました。すると、さきに大長谷皇子《おおはつせのおうじ》にお殺されになった、忍歯王《おしはのみこ》のお妹さまで忍海郎女《おしぬみのいらつめ》、またのお名まえを飯豊王《いいとよのみこ》とおっしゃる方が、大和《やまと》の葛城《かつらぎ》の角刺宮《つのさしのみや》というお宮においでになりました。それで、このお方にともかく一|時《じ》政《まつりごと》をおとりになっていただきました。みんなは、例の忍歯王《おしはのみこ》のお子さまの意富祁《おおけ》、袁祁《おけ》のお二人が、播磨《はりま》の国でうし飼《かい》、うま飼《かい》になって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。
 その後まもなく、その播磨《はりま》の国へ、山部連小楯《やまべのむらじおだて》という人が国造《くにのみやつこ》になって行きました。するとその地方の志自牟《しじむ》という者が新築《しんちく》したおうちでお酒盛《さかもり》をしました。そのとき小楯《おだて》をはじめ、よばれた人たちも、お酒がまわるにつれて、みんなで代わる代わる立って舞《まい》を舞いました。しまいにはかまどのそばで火をたいていたきょうだい二人の火たきの子供にも舞えと言いました。
 すると弟のほうの子は、兄の子に向かって、おまえさきにお舞いと言いました。兄は弟に向かって、おまえから舞えと言いました。みんなは、そんないやしい小やっこどもが、人なみに、もっともらしくゆずり合うのをおもしろがって、やんやと笑《わら》いました。
 そのうちに、とうとう兄のほうがさきに舞いました。弟はそのあとに舞い出そうとするときに、まず大声でつぎのような歌を歌って自分たちきょうだいの身の上をうちあけました。
「男らしい大きな男が、太刀《たち》のつかに赤い飾《かざ》りをつけ、太刀のおには赤いきれをつけて、いかにも人目を引く姿《すがた》をしていても、深くおい茂《しげ》ったたけやぶの後ろにはいれば、隠《かく》れて目にも見えない」と、こう歌いだして、たけやぶという言葉《ことば》を引き出した後、
「そんなたけやぶの大きなたけを割って、それを並《なら》べてこしらえた、八絃琴《はちげんきん》は、それはそれは調子がよく整《ととの》って申し分がない。今から五|代《だい》前《まえ》の履仲天皇《りちゅうてんのう》は、ちょうどその琴《こと》のしらべと同じように、どこまでもりっぱに天下をお治めになったお方である。その皇子《おうじ》に忍歯王《おしはのみこ》とおっしゃる方がいらしった。みんなの人々よ、われわれ二人は、その忍歯王《おしはのみこ》の子であるぞ」と歌いました。
 小楯《おだて》はそれを聞くとびっくりして、床《ゆか》からころがり落ちてしまいました。そして大あわてにあわてて、さっそくみんなを残らず追い出したうえ、意外なところでお見出し申した、意富祁《おおけ》、袁祁《おけ》のお二人を左右のおひざにお抱《かか》え申しながら、お二人の今日《こんにち》までのご辛苦《しんく》をお察し申しあげて、ほろほろと涙《なみだ》を流して泣《な》きました。
 小楯《おだて》はそれから急いでみんなを集めて、仮のお宮をつくり、お二人をその中にお移し申しました。そして、すぐに大和《やまと》へ早うまの使いを立てて、おんおば上の飯豊王《いいとよのみこ》にご注進《ちゅうしん》申しあげました。飯豊王《いいとよのみこ》はそれをお聞きになると、大喜びにお喜びになり、すぐにお二人をお呼《よ》びのぼせになりました。

       二

 お二人は、角刺《つのさし》のお宮でだんだんにご成人《せいじん》になりました。
 あるとき袁祁王《おけのみこ》は、歌がきといって、男や女がおおぜいいっしょに集まって、歌を歌いかわす催《もよお》しへおでかけになりました。
 そのとき菟田首《うたのおびと》という人の娘《むすめ》で、王《みこ》がかねがねお嫁《よめ》にもらおうと思っておいでになる、大魚《おうお》という美し
前へ 次へ
全25ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鈴木 三重吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング