》出《だ》しました。
 大長谷皇子《おおはつせのおうじ》は、その前から、この都夫良《つぶら》の娘《むすめ》の訶良媛《からひめ》という人をお嫁《よめ》におもらいになることにしていらっしゃいました。皇子《おうじ》は今どんどん射《い》向ける矢の中に、矛《ほこ》を突《つ》いてお突ッ立ちになりながら、
「都夫良《つぶら》よ、訶良媛《からひめ》はこのうちにいるか」と大声でおどなりになりました。
 都夫良《つぶら》はそれを聞くと、急いで武器を投げすてて、皇子《おうじ》の御前《ごぜん》へ出て来ました。そして八度《やたび》伏《ふ》し拝《おが》んで申しあげました。
「娘《むすめ》の訶良媛《からひめ》はお約束のとおり必《かなら》ずあなたにさしあげます。また五か村《そん》の私の領地も、娘に添《そ》えて献上《けんじょう》いたします。ただどうぞ、今しばらくお待ちくださいまし。私がただ今すぐに娘をさしあげかねますわけは、昔《むかし》から臣下の者が皇子さま方のお宮へ逃《に》げかくれたことは聞いておりますが、貴《とうと》い皇子さまがしもじもの者のところへお逃《のが》れになったためしはかつて聞きません。私はいかに力いっぱい戦いましても、あなたにお勝ち申すことができないのは十分わきまえております。しかし、目弱王《まよわのみこ》は、私ごとき者をも頼《たよ》りにしてくださって、いやしい私のうちへおはいりくださっているのでございますから、私といたしましては、たとえ死んでもお見捨《みす》て申すことはできません。娘はどうぞ私が討《う》ち死《じ》にをいたしましたあとで、おめしつれくださいまし」
 こう申しあげて御前をさがり、再び戦《いくさ》道具を取って邸《やしき》にはいって、いっしょうけんめいに戦《いくさ》をいたしました。
 そのうちに都夫良《つぶら》はとうとうひどい手傷《てきず》を負いました。みんなも矢だねがすっかり尽《つ》きてしまいました。それで都夫良《つぶら》は目弱王《まよわのみこ》に向かって、
「私もこのとおりで、もはや戦《いくさ》を続けることができません。いかがいたしましょう」と申しあげました。
 お小さな目弱王《まよわのみこ》は、
「それではもうしかたがない。早く私《わたし》を殺してくれ」とおっしゃいました。都夫良《つぶら》はおおせに従ってすぐに王《みこ》をお刺《さ》し申した上、その刀で自分の首を切って死んでしまいました。

       三

 このさわぎが片《かた》づくとまもなく、ある日、大長谷皇子《おおはつせのおうじ》のところへ、近江《おうみ》の韓袋《からぶくろ》という者が、そちらの蚊屋野《かやの》というところに、ししやしかがひじょうにたくさんおりますと申し出ました。
「そのどっさりおりますことと申しますと、群がり集まった足はちょうどすすきの原のすすきのようでございますし、群がった角《つの》は、ちょうど枯木《かれき》の林のようでございます」と韓袋《からぶくろ》は申しあげました。
 皇子《おうじ》は、ようし、とおっしゃって、履仲天皇《りちゅうてんのう》の皇子で、ちょうどおいとこにおあたりになる、忍歯王《おしはのみこ》とおっしゃるお方とお二人で、すぐに近江《おうみ》へおくだりになりました。お二人は蚊屋野《かやの》にお着きになりますと、ごめいめいに別々の仮屋《かりや》をお立てになって、その中へおとまりになりました。
 そのあくる朝、忍歯王《おしはのみこ》は、まだ日も上らないうちにお目ざめになりました。それでまったくなんのお気もなく、すぐにおうまにめして、大長谷皇子《おおはつせのおうじ》のお仮屋へ出かけておいでになりました。こちらでは、皇子《おうじ》はまだよくおよっていらっしゃいました。王《みこ》は、皇子のおつきの者に向かって、
「まだお目ざめでないようだね。もう夜《よ》も明けたのだから、早くお出かけになるように申しあげよ」とおっしゃって、そのままおうまをすすめて、りょう場へお出かけになりました。
 皇子のおつきの者は、皇子に向かって、
「ただ今|忍歯王《おしはのみこ》がおいでになりまして、これこれとおっしゃいました。なんだかおっしゃることが変ではございませんか。けっしてごゆだんをなさいますな。お身|固《かた》めも十分になすってお出かけなさいますように」と悪く疑《うたが》ってこう申しあげました。それで皇子も、わざわざお召物《めしもの》の下へよろいをお着こみになりました。そして弓矢《ゆみや》を取っておうまを召《め》すなり、大急ぎで王《みこ》のあとを追ってお出かけになりました。
 皇子はまもなく王に追いついて、お二人でうまを並《なら》べてお進みになりました。そのうちに皇子はすきまをねらって、さっと矢をおつがえになり、罪もない忍歯王《おしはのみこ》を、だしぬけに射《い》落としておしまいになりました。そして、なお飽《あ》き足《た》らずに、そのおからだをずたずたに切り刻《きざ》んで、それをうまの飼葉《かいば》を入れるおけの中へ投げ入れて、土の中へ埋《う》めておしまいになりました。

       四

 忍歯王《おしはのみこ》には意富祁王《おおけのみこ》、袁祁王《おけのみこ》というお二人のお子さまがいらっしゃいました。
 お二人はお父上がお殺されになったとお聞きになりまして、それでは自分たちも、うかうかしてはいられないとおぼしめして、急いで大和《やまと》をお逃《に》げになりました。
 そのお途中でお二人が、山城《やましろ》の苅羽井《かりはい》というところでおべんとうをめしあがっておりますと、そこへ、ちょう役《えき》あがりの印《しるし》に、顔《かお》へ入墨《いれずみ》をされている、一人の老人《ろうじん》が出て来て、お二人が食べかけていらっしゃるおべんとうを奪《うば》い取りました。お二人は、
「そんなものは惜《お》しくもないけれど、いったいおまえは何者だ」とおたしなめになりました。
「おれは山城《やましろ》でお上《かみ》のししを飼《か》っているしし飼《かい》だ」とその悪者《わるもの》の老人は言いました。
 お二人は、それから河内《かわち》の玖須婆川《くすばがわ》という川をお渡《わた》りになり、とうとう播磨《はりま》まで逃げのびていらっしゃいました。そして固くご身分をかくして、志自牟《しじむ》という者のうちへ下男におやとわれになり、いやしいうし飼、うま飼の仕事《しごと》をして、お命をつないでいらっしゃいました。
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 とんぼのお歌

       一

 大長谷皇子《おおはつせのおうじ》は、まもなく雄略天皇《ゆうりゃくてんのう》としてご即位《そくい》になり、大和《やまと》の朝倉宮《あさくらのみや》にお移《うつ》りになりました。皇后には、例《れい》の大日下王《おおくさかのみこ》のお妹さまの若日下王《わかくさかのみこ》をお立てになりました。
 その若日下王《わかくさかのみこ》が、まだ河内《かわち》の日下《くさか》というところにいらしったときに、ある日天皇は、大和《やまと》からお近道《ちかみち》をおとりになり、日下《くさか》の直越《ただごえ》という峠《とうげ》をお越《こ》えになって、王《みこ》のところへおいでになったことがありました。
 そのとき天皇は、山の上から四方の村々をお見わたしになりますと、向こうの方に、一|軒《けん》、むねにかつお木をとりつけているうちがありました。かつお木というのは、天皇のお宮か、神さまのお社《やしろ》かでなければつけないはずの、かつおのような形をした、むねの飾《かざ》りです。
 天皇はそれをご覧《らん》になって、
「あの家はだれの家か」とおたずねになりました。
「あれは志幾《しき》の大県主《おおあがたぬし》のうちでございます」と、お供の者がお答え申しました。天皇は、
「無礼なやつめ。おのれが家をわしのお宮に似《に》せて作っている」とお怒《いか》りになり、
「行ってあの家を焼きはらって来い」とおっしゃって、すぐに人をおつかわしになりました。
 すると大県主《おおあがたぬし》はすっかりおそれいってしまいました。
「実は、おろかな私どものことでございますので、ついなんにも存じませんで、うっかりこしらえましたものでございます」と言って、縮《ちぢ》みあがってお申しわけをしました。そして、そのおわびの印《しるし》に、一ぴきの白いぬにぬのを着せ、鈴《すず》の飾《かざ》りをつけて、それを身内《みうち》の者の一人の、腰佩《こしはき》という者に綱《つな》で引かせて、天皇に献上《けんじょう》いたしました。
 それで天皇も、そのうちをお焼きはらいになることだけは許しておやりになり、そのまま若日下王《わかくさかのみこ》のおうちへお着きになりました。
 天皇はお供《とも》の者をもって、
「これはただいま途中で手に入れたいぬだ。珍《めずら》しいものだから進物《しんもつ》にする」とおっしゃって、さっきの白いぬを若日下王《わかくさかのみこ》におくだしになりました。しかし王《みこ》は、
「きょう天皇は、お日さまをお背中《せなか》になすっておこしになりました。これではお日さまに対しておそれおおうございますので、きょうはお目にかかりません。そのうち、私のほうからすぐにまかり出まして、お宮へお仕え申しあげます」
 こう言って、おことわりをなさいました。
 天皇はお帰りのお途中、山の上にお立ちになって、若日下王《わかくさかのみこ》のことをお慕《した》いになるお歌をおよみになり、それを王《みこ》へお送りになりました。王《みこ》はそれからまもなくお宮へおあがりになりました。

       二

 天皇はあるとき、大和《やまと》の美和川《みわがわ》のほとりへお出ましになりました。そうすると、一人の娘《むすめ》が、その川で着物を洗っておりました。それはほんとうに美しい、かわいらしい娘でした。天皇は、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
「私《わたくし》は引田郎《ひけたべ》の赤猪子《あかいのこ》と申します者でございます」と娘はお答え申しました。天皇は、
「それでは、いずれわしのお宮へ召《め》し使ってやるから待っていよ」とおっしゃって、そのままお通りすぎになりました。
 赤猪子《あかいのこ》はたいそう喜んで、それなりお嫁《よめ》にも行かないで、一心にご奉公《ほうこう》を待っておりました。しかし宮中《きゅうちゅう》からは、何十年たっても、とうとうお召《め》しがありませんでした。そのうちに、もうひどいおばあさんになってしまいました。赤猪子《あかいのこ》は、
「これではいよいよお宮へご奉公にあがることはできなくなった。しかしこんなになるまで、いっしょうけんめいにおめしを待っていたことだけは、いちおう申しあげて来たい」こう思って、ある日、いろいろの鳥やお魚《さかな》や野菜ものをおみやげに持って、お宮へおうかがいいたしました。すると天皇は、
「そちはなんという老婆《ろうば》だ。どういうことでまいったのか」とおたずねになりました。赤猪子《あかいのこ》は、
「私は、いついつの年のこれこれの月に、これこれこういうおおせをこうむりましたものでございます。こんにちまでお召《め》しをお待ち申してとうとう何十年という年を過《す》ごしました。もはやこんな老婆《ろうば》になりましたので、もとよりご奉公《ほうこう》には堪《た》えられませんが、ただ私がどこまでもおおせを守《まも》っておりましたことだけを申しあげたいと存じましてわざわざおうかがいいたしました」と申しあげました。天皇《てんのう》はそれをお聞きになって、びっくりなさいました。
「私《わし》はそのことは、もうとっくに忘《わす》れてしまっていた。これはこれはすまないことをした。かわいそうに」とおっしゃって、二つのお歌をお歌いになり、それでもって、赤猪子《あかいのこ》のどこまでも正直《しょうじき》な心根《こころね》をおほめになり、ご自分のために、とうとう一生お嫁《よめ》にも行かないで過ごしたことをしみじみおあわれみになりました。赤猪子《あかいのこ》
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