て討《う》ち亡《ほろ》ぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津《せっつ》の斗賀野《とがの》というところまでご進軍になりました。
 皇子たちは、その野原でためしに猟《りょう》をして、その獲物《えもの》によって、さいさきを占《うらな》ってみようとなさいました。
 香坂皇子《かごさかのおうじ》は、くぬぎの木に上って、その猟の有様《ありさま》を見ていらっしゃいました。すると、ふいにそこへ、手傷《てきず》を負《お》った大きないのししがあらわれて、そのくぬぎの木の根もとをどんどん掘《ほ》りにかかりました。そしてまもなくすとんと掘り倒《たお》したと思いますと、いきなり香坂皇子《かごさかのおうじ》に飛びかかって、がつがつ皇子を食べてしまいました。
 しかし、弟さまの忍熊皇子《おしくまのおうじ》は、そんな悪い前兆《ぜんちょう》にもとんじゃくなしに、そのまま軍勢をおひきつれになり、海ばたまで押しかけて、待ちかまえていらっしゃいました。
 そのうちに、皇后がたのお船が見えて来ました。忍熊王《おしくまのみこ》は、その中の喪船《もふね》には、兵たいたちが乗っていないはずなので、まずまっ先にその船を目がけてお討《う》ちかからせになりました。
 ところがその船の中には、前もってちゃんとよりすぐりの兵が忍《しの》ばせてありました。その兵士たちは船がつくなり、ふいに、うわッと飛び下りて、たちまち、はげしい戦《いくさ》をはじめました。
 そのとき忍熊王《おしくまのみこ》の軍勢《ぐんぜい》には、伊佐比宿禰《いさひのすくね》というものが総大将《そうたいしょう》になっていました。それに対して皇后方からは建振熊命《たけふるくまのみこと》という強い人が将軍となって攻《せ》めかけました。
 建振熊命《たけふるくまのみこと》は見る見るうちに宿禰《すくね》の軍勢を負かし崩《くず》して、ぐんぐんと、どこまでも追っかけて行きました。すると敵は山城《やましろ》でふみ止《とど》まって、頑固《がんこ》に防《ふせ》ぎ戦《いくさ》をしだしました。
 建振熊命《たけふるくまのみこと》は、何をと言いながら、死にもの狂《ぐる》いで攻めかけ攻めかけしました。しかし、どんなにあせっても敵はそれなりひと足も退《ひ》こうとはしませんでした。
 建振熊命《たけふるくまのみこと》は、しまいには、これでは果《は》てしがないと思い直して、急に味方の兵をひきまとめるといっしょに、向こうの軍勢に向かって、
「実は皇后が急におなくなりになったので、われわれはもう戦《いくさ》をする気はない」と申し入れながら、その目の前で全軍《ぜんぐん》の兵士《へいし》たちに弓《ゆみ》の弦《つる》をことごとく断《た》ち切《き》らせて、さもほんとうのように、伊佐比宿禰《いさひのすくね》に降参《こうさん》をしました。
 すると伊佐比宿禰《いさひのすくね》はそれですっかり気をゆるして、自分のほうもひとまずみんなに弓の弦《つる》をはずさせ、いっさいの戦《いくさ》道具をも片《かた》づけさせてしまいました。
 建振熊命《たけふるくまのみこと》はそれを見すまして、
「それッ」と合い図をしますと、部下の兵たちは、髪《かみ》の中に隠《かく》していた、かけがえの弦を取り出して瞬《またた》くまに弓を張って、
「うわッ」と、哄《とき》を上げて攻めかかりました。
 敵はまんまと不意を討《う》たれて、総くずれになってにげ出しました。建振熊命《たけふるくまのみこと》は勝に乗じてどんどんと追いまくって行きました。
 すると敵勢《てきぜい》は近江《おうみ》の逢坂《おうさか》というところまでにげのびて、そこでいったん踏《ふ》み止《とど》まって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。
 建振熊命《たけふるくまのみこと》は、とうとうそれを同じ近江《おうみ》の篠波《ささなみ》というところで追いつめて、敵の兵たいという兵たいを一人ものこさず斬《き》り殺してしまいました。
 そのとき忍熊王《おしくまのみこ》と伊佐比宿禰《いさひのすくね》とは、危《あやう》く船に飛び乗って、湖水の中へにげ出しました。
 しかしぐずぐずしていると今につかまってしまうのが目に見えていましたので、皇子《おうじ》は宿禰《すくね》に向かって、

  さあ、おまえ、
  振熊《ふるくま》に殺されるよりも、
  鳰鳥《かいつぶり》のように、
  この湖水にもぐってしまおうよ。

とお歌いになり、二人でざんぶと飛び込《こ》んで、それなり溺《おぼ》れ死にに死んでおしまいになりました。

       四

 皇后はそれでいよいよめでたく大和《やまと》へおかえりになりました。
 しかし武内宿禰《たけのうちのすくね》だけは、お小さな天皇をおつれ申して、穢《けが》れ払《はら》いの禊《みそぎ》ということをしに、近江《おうみ》や若狹《わかさ》をまわって、越前《えちぜん》の鹿角《つぬが》というところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在《たいざい》しておりました。
 するとその土地に祀《まつ》られておいでになる伊奢沙和気大神《いささわけのおおかみ》という神さまが、あるばん宿禰《すくね》の夢に現われていらしって、
「わしの名を、お小さい天皇のお名と取りかえてくれぬか」とおっしゃいました。
 宿禰《すくね》は、
「それはもったいないおおせでございます。どうもありがとう存じます」とお答え申しました。大神《おおかみ》は、「それでは、明日《あす》お供をして海ばたへ来るがよい。名を取りかえてくださったお礼を上げようから」とおっしゃいました。
 それであくる朝早く、天皇をおつれ申して海岸へ出て見ますと、みんな鼻の先に傷《きず》をうけた、それはそれはたいそうな海豚《いるか》が、浜じゅうへいっぱいうち上げられておりました。
 宿禰《すくね》はさっそくお社《やしろ》へお使いをたてて、
「食べ料のお魚《さかな》をどっさりありがとう存じます」とお礼を申しあげました。
 天皇はそれから大和《やまと》へおかえりになりました。
 お待ち受けになっていたお母上の皇后は、それはそれは大喜びをなすって、さっそくご用意のお酒を出させて、お祝いのおさかもりをなさいました。
 皇后は、

  このお酒は、私《わたし》がかもした酒ではない。
  薬の神の少名彦名神《すくなひこなのかみ》があなたのご運をお祝いして、
  喜びさわいでつくってくだされたお酒だから、
  のこさず、すっかりめし上がってください。
  さあさあどうぞ。

という意味をお歌いになりました。
 宿禰《すくね》は天皇に代わって、

  このお酒をつくった人は、
  鼓《つづみ》を臼《うす》の上に立てて、
  歌いながら、舞《ま》いながら、
  喜び喜びつくったせいでございますか、
  それはそれはたいそうよいお酒で、
  いただきますとひとりでに歌いたく、
  舞いたくなってまいります。
  ああ楽しや。

とお答えの歌を歌いながら、ともどもお喜び申しました。
 後の世の人は、この母上の皇后の、いろんな雄々《おお》しい大きなお手柄《てがら》をおほめ申しあげて、お名まえを特に神功皇后《じんぐうこうごう》とおよび申しております。
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 赤い玉

       一

 神功皇后《じんぐうこうごう》のお母方《ははかた》のご先祖については、こういうお話が伝わっています。
 それは、この時分からも、もっともっと昔《むかし》、新羅《しらぎ》の国の阿具沼《あぐぬま》という沼《ぬま》のほとりで、ある日一人の女が昼寝《ひるね》をしておりました。すると、ふしぎなことには、日の光がにじのようになって、さっと、その女のお腹《なか》へ射《さ》しました。
 それをちょうど通りかかった一人の農夫が見て、へんなこともあるものだと思いながら、それからは、いつもその女のそぶりに目をつけていますと、女はまもなくお腹が大きくなって、一つの赤い玉を生み落としました。農夫はその玉を女からもらって、物につつんで、いつも腰《こし》につけていました。
 この農夫は谷間《たにま》に田を作っておりました。ある日農夫は、その田で働いている人たちのたべ物を、うしに負わせて運んで行きますと、その谷間で、天日矛《あめのひほこ》という、この国の王子に出会いました。
 王子は農夫がへんなところへうしを引いて行くのを見て、
「これこれ、そちはどうしてそのうしへたべ物などを乗せてこんなところへはいって来たのだ。きっと人に隠《かく》れてそのうしも殺して食おうというのであろう」と言いながら、いきなり農夫をつかまえてろうやへつれて行こうとしました。農夫は、
「いえいえ私はけっしてこのうしを殺そうなどとするのではございません。ただこうして百姓《ひゃくしょう》たちのたべ物を運んでまいりますだけでございます」と、ほんとうのままを話しました。それでも王子は、
「いやいや、うそだ」と言って、なかなかゆるしてくれないので、農夫は腰《こし》につけている例の赤い玉を出して、それを王子にあげて、やっとのことで放してもらいました。
 王子はその玉をおうちへ持って帰って、床《とこ》の間に置いておきました。すると赤い玉が、ふいに一人の美しい娘になりました。王子はその娘を自分のお嫁《よめ》にもらいました。
 そのお嫁は、いつもいろいろの珍《めずら》しいお料理をこしらえて、王子に食べさせていましたが、王子はだんだんにわがままを出して、しまいにはお嫁をひどくののしりとばすようになりました。
 するとお嫁のほうではとうとうたまりかねて、
「私《わたし》はもうこれぎり親たちの国へ帰ってしまいます。もともと私は、あなたのような方のお嫁になってばかにされるような女ではありません」と言いながら、そのうちを抜《ぬ》け出して、小船に乗って、はるばると摂津《せっつ》の難波《なにわ》の津《つ》まで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流媛《あかるひめ》という神さまとしてその土地にまつられました。
 王子の天日矛《あめのひほこ》は、そのお嫁のあとを追っかけて、とうとう難波《なにわ》の海まで出て来ましたが、そこの海の神がさえぎって、どうしても入れてくれないものですから、しかたなしにひきかえして、但馬《たじま》の方へまわって、そこへ上陸しました。そして、しばらくそこに暮らしているうちに、後にはとうとうその土地の人をお嫁にもらって、そのままそこへいつくことにしました。
 この天日矛《あめのひほこ》の七代目の孫にあたる高額媛《たかぬひめ》という人がお生み申したのが、すなわち神功皇后《じんぐうこうごう》のお母上でいらっしゃいました。例の垂仁天皇《すいにんてんのう》のお言いつけによって、常世国《とこよのくに》へたちばなの実を取りに行ったあの多遅摩毛理《たじまもり》は、日矛《ひほこ》の五代目の孫の一人でした。
 日矛《ひほこ》はこちらへ渡《わた》って来るときに、りっぱな玉や鏡なぞの宝物《ほうもつ》を八品《やしな》持って来ました。その宝物は、伊豆志《いずし》の大神《おおかみ》という名まえの神さまにしてまつられることになりました。

       二

 この宝物をまつった神さまに、伊豆志乙女《いずしおとめ》という女神《めがみ》が生まれました。この女神を、いろんな神々たちがお嫁にもらおうとなさいましたが、女神はいやがって、だれのところへも行こうとはしませんでした。
 その神たちの中に、秋山の下冰男《したびおとこ》という神がいました。その神が弟の春山《はるやま》の霞男《かすみおとこ》という神に向かって、
「私《わたし》はあの女神をお嫁にしようと思っても、どうしても来てくれない。どうだ、おまえならもらってみせるか」と聞きました。
「私《わたし》ならわけなくもらって来ます」と弟の神は言いました。
「ふふん、きっとか。よし、それではおまえがりっぱにあの女神《めがみ》をもらって見せたら、そのお祝いに、わしの着物をやろう。それからわしの身の丈《たけ》ほどの大がめに酒を盛《も》って、海山の珍《めずら》しいご
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