わって飛んで行きました。
お妃《きさき》は潮《しお》の中を歩きなやみながら、おんおんお泣きになりました。
その鳥は、とうとう伊勢《いせ》から河内《かわち》の志紀《しき》というところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を作って、いったんそこへお鎮《しず》め申しましたが、しかし鳥は、あとにまた飛び出して、どんどん空をかけて、どこへともなく逃《に》げ去ってしまいました。
五
命《みこと》には、お子さまが男のお子ばかり六人おいでになりました。その中の、帯中津日子命《たらしなかつひこのみこと》とおっしゃる方は、後にお祖父上《そふうえ》の天皇のおつぎの成務天皇《せいむてんのう》のおあとをお継《つ》ぎになりました。すなわち仲哀天皇《ちゅうあいてんのう》でいらっしゃいます。
命が諸方を征伐《せいばつ》しておまわりになる間は、七拳脛《ななつかはぎ》という者が、いつもご料理番としてお供について行きました。
御父上《おんちちうえ》の景行天皇《けいこうてんのう》は、おん年百三十七でおかくれになりました。
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朝鮮征伐《ちょうせんせいばつ》
一
仲哀天皇《ちゅうあいてんのう》は、ある年、ご自身で熊襲《くまそ》をお征伐《せいばつ》におくだりになり、筑前《ちくぜん》の香椎《かしい》の宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。
そのとき天皇は、ある夜、戦《いくさ》のお手だてについて、神さまのお告げをいただこうとおぼしめして、大臣の武内宿禰《たけのうちのすくね》をお祭場《まつりば》へお坐《すわ》らせになり、御自分はお琴《こと》をおひきになりながら、お二人でお祈《いの》りをなさいました。そうすると、どなたか一人の神さまが、皇后の息長帯媛《おきながたらしひめ》のおからだにお乗りうつりになり、皇后のお口をお借りになって、
「これから西の方にあるひとつの国がある、そこには金銀をはじめ、目もまぶしいばかりの、さまざまの珍《めずら》しい宝《たから》がどっさりある。つまらぬ熊襲《くまそ》の土地よりも、まずその国をあなたのものにしてあげよう」とおっしゃいました。
「しかし、高いところへ登って西の方を見ましても、そちらの方はどこまでも大海《おおうみ》ばかりで、国などはちっとも見えないではありませんか」と、天皇はお答えになりました。そしてお心のうちでは、
「これはほんとうの神さまではあるまい。きっといつわりを言う神が乗りうつったにちがいない」とおぼしめして、それなりお琴《こと》をおしのけて、だまっておすわりになっていました。
すると神さまはたいそうお怒《いか》りになって、
「そんな、わしの言葉《ことば》をうたぐったりするものには、この国も任《まか》せてはおかれない。あなたはもう、さっさと死んでおしまいなさるがよい」と、おおせになりました。
宿禰《すくね》はその言葉を聞くと、びっくりして、
「これはたいへんでございます。陛下よ、どうぞもっとお琴をおひきあそばしませ」と、あわててご注意申しあげました。
天皇は仕方なしに、しぶしぶお琴をおひき寄せになって、しばらくの間、申しわけばかりにぽつぽつひいておいでになりましたが、そのうちにまもなく、ふッつりとお琴の音《ね》がとだえてしまいました。
宿禰《すくね》はへんだと思って、灯《ひ》をさし上げて見ますと、天皇はもはやいつのまにかお息が絶えて、その場にお倒《たお》れになっていらっしゃいました。
皇后も宿禰《すくね》も、神さまのお罰《ばつ》に驚《おどろ》き怖《おそ》れて、急いでそのお空骸《なきがら》を仮のお宮へお移し申しました。そしてまず第一番に、神さまのお怒りをおなだめ申すために、そのあたりの国じゅうで生きた獣《けもの》の皮を剥《は》いだり、獣を逆《さか》はぎにしたものをはじめとして、田の畔《くろ》をこわしたもの、溝《みぞ》をうめたもの、汚《きた》ないものをひりちらしたもの、そのほか言うも穢《けが》らわしいような、さまざまの汚ない罪を犯したものたちをいちいちさがし出させて、御幣《ごへい》をとって、はらい清めて、国じゅうのけがれをすっかりなくしておしまいになりました。そして、宿禰《すくね》が再《ふたた》びお祭場に坐《すわ》って、改めて神さまのお告げをお祈り申しました。
すると神さまからは、この前おっしゃった西の国のことについて、同じようなおおせがありました。
「それからこの日本の国は、今、皇后のお腹《なか》にいらっしゃるお子がお治めになるべきものだ」とおっしゃいました。
皇后は、そのときちょうどお身重《みおも》でいらっしゃいました。宿禰《すくね》はそのおおせを聞いて、
「では、恐《おそ》れながら、今、皇后のお腹においでになりますお子さまは、男のお子さまと女のお子さまと、どちらでいらっしゃりましょう」とうかがいますと、
「お子はご男子《なんし》である」とお告げになりました。
宿禰《すくね》はなお、すべてのことをうかがっておこうと思いまして、
「まことにおそれいりますが、かようにいちいちお告げを下さいますあなたさまは、どなたさまでいらっしゃいますか。どうぞお名まえをおあかしくださいまし」と申しあげました。神さまは、やはり皇后のお口を通して、
「これはすべて天照大神《あまてらすおおかみ》のおぼしめしである。また、底筒男命《そこつつおのみこと》、中筒男命《なかつつおのみこと》、上筒男命《うわつつおのみこと》の三人の神も、いっしょに申し下《くだ》しているのだ」と、そこではじめてお名まえをお告げになりました。
神さまはなお改めて、
「もしそなたたちが、ほんとうにあの西の国を得ようと思うならば、まず大空の神々、地上の神々、また、山の神、海と河《かわ》との神々にことごとくお供えを奉《たてまつ》り、それから私たち三人の神の御魂《みたま》を船のうえに祀《まつ》ったうえ、まき[#「まき」に傍点]の灰《はい》を瓠《ひさご》に入れ、また箸《はし》と盆《ぼん》とをたくさんこしらえてそれらのものを、みんな海の上に散らし浮かべて、その中を渡《わた》って行くがよい」とおっしゃって、くわしく征伐《せいばつ》の手順《てじゅん》をおしえてくださいました。
それで、皇后はすぐ軍勢をお集めになり、神々のお言葉《ことば》のとおりに、すべてご用意をお整《ととの》えになって、仰山《ぎょうさん》なお船をめしつらねて、勇ましく大海のまん中へお乗り出でになりました.
そうすると海じゅうの、あらゆる大小の魚が、のこらず駈《か》けよって来て、すっかりのお船をみんなで背中《せなか》にお担《かつ》ぎ申しあげて、わッしょいわッしょいと、威勢《いせい》よく押《お》しはこんで行きました。そこへ、ちょうどつごうよく、追い手の風がどんどん吹き募《つの》って来ました。ですから、それだけのお船がみんな、かけ飛ぶように走って行きました。
そのうちに、そのたいそうな大船に押しまくられた大浪《おおなみ》が、しまいには大きな、すさまじい大海嘯《おおつなみ》となって、これから皇后がご征伐になろうとする、今の朝鮮《ちょうせん》の一部分の新羅《しらぎ》の国へ、ふいにどどんと打《う》ち上げました。そして、あっという間《ま》に、国じゅうを半分までも巻《ま》き込《こ》んでしまいました。
皇后の軍勢は、その大海嘯と入れちがいに、息もつかせずうわあッと攻《せ》めこみました。すると新羅《しらぎ》の王はすっかり怖《おそ》れちぢこまって、すぐに降参《こうさん》してしまいました。
国王は、
「私どもはこれからいついつまでも、天皇のおおせのままに、おうま飼《かい》の下郎《げろう》となりまして、いっしょうけんめいにご奉公申しあげます。そして毎年《まいとし》船をどっさり仕立てまして、その船底《ふなぞこ》の乾《かわ》くときもなく、棹《さお》や櫂《かい》の乾くまもなもないほどおうかがわせ申しまして、絶えず貢物《みつぎもの》を奉《たてまつ》り天地が亡《ほろ》びますまで無窮《むきゅう》にお仕え申しあげます」と、平蜘蛛《ひらぐも》のようになっておちかいをいたしました。
それで皇后はさっそくお聞き届《とど》けになりまして、新羅《しらぎ》の王をおうま飼《かい》ということにおきめになり、その隣《となり》の百済《くだら》をもご領地《りょうち》にお定めになりました。そしてそのお印《しるし》に、お杖《つえ》を、新羅《しらぎ》の王宮《おうきゅう》の門のところに突《つ》き刺《さ》してお置《お》きになりました。
それから最後に、お社《やしろ》をお作りになって、今度のご征伐《せいばつ》についていちいちお指図《さしず》をしてくださった、底筒男命《そこつつおのみこと》以下三人の神さまを、この国の氏神《うじがみ》さまにお祀《まつ》りになった後、ご威風《いふう》堂々と新羅《しらぎ》をおひき上げになりました。
二
おん母上の皇后はその前に、まだご征伐のお途中でお腹《なか》のお子さまがお生まれになろうとしました。それで、どうぞ今しばらくの間はご出産にならないようにとお祈りになって、そのお呪《まじな》いに、お下着のお腰《こし》のところへ石ころをおつるしになり、それでもって当分お腹をしずめておおきになりました。
するとお子さまは、ちゃんと筑紫《つくし》へお凱旋《がいせん》になってからご無事にお生まれになりました。それはかねて神さまのお告げのとおりりっぱな男のお子さまでいらっしゃいました。この小さな天皇には、ご誕生《たんじょう》のときに、ちょうど、鞆《とも》といって弓《ゆみ》を射《い》るときに左の臂《ひじ》につける革具《かわぐ》のとおりの形をしたお盛肉《もりにく》が、お腕《うで》に盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命《おおとものみこと》とお名づけになりました。すなわち後にお呼《よ》び申す応神天皇《おうじんてんのう》さまです。その鞆《とも》のお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のお腹《なか》のうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんな畏《おそ》れ入りました。
また、皇后はご出征のまえに、肥前《ひぜん》の玉島《たましま》というところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。
それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴《したばかま》の糸をぬいて釣糸《つりいと》になされ、お食事のおあとのご飯《はん》粒《つぶ》を餌《えさ》にして、ただでも決して釣《つ》ることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。
ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴《したばかま》の糸をぬいて、飯粒《めしつぶ》を餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえる印《しるし》にしておりました。
三
おん母上の皇后は、ついで熊襲《くまそ》をも難なくご平定になって、いよいよ大和《やまと》におかえりになることになりました。
しかし、大和には、香坂王《かごさかのみこ》、忍熊王《おしくまのみこ》とおっしゃる、お二人のお腹《はら》ちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をお企《たくら》みになるかわからないとお気づかいになりました。
それで皇后は、ちゃんとお策略《さくりゃく》をお立てになって、喪船《もふね》を一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。
そして天皇はもはやとくにお亡《な》くなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸《なきがら》を奉じておかえりになるていにして、筑紫《つくし》をお立ちになりました。
こちらは香坂《かごさか》、忍熊《おしくま》の二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけ
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