て、お腕へ三重《みえ》にお巻きつけになり、お召物《めしもの》もわざわざ酒で腐らしたのをおめしになって、それともなげに皇子を抱《かか》えて、とりでの外へお出ましになりました。
待ちかまえていた勇士たちは、そのお子さまをお受け取り申すといっしょに、皇后をも奪い取ろうとして、すばやく飛びかかってお髪《ぐし》をひっつかみますと、髪はたちまちすらりとぬげ落ちてしまいました。
「おや、しまった」と、こんどはお手をつかみますと、そのお手の玉飾りの緒《ひも》もぷつりと切れたので、難《なん》なくお手をすり抜《ぬ》いてお逃《に》げになりました。こちらはまたあわてて追いすがりながら、ぐいとお召物をつかまえました。すると、それもたちまちぼろりとちぎれてしまいました。その間に皇后は、さっと中へ逃げこんでおしまいになりました。
勇士どもはしかたなしに、皇子一人をお抱《かか》え申して、しおしおと帰ってまいりました。
天皇はそれらの者たちから、
「お髪《ぐし》をつかめばお髪がはなれ、玉の緒《ひも》もお召物《めしもの》も、みんなぷすぷす切れて、とうとうおとりにがし申しました」とお聞きになりますと、それはそれはたいそうお悔《くや》みになりました。
天皇はそのために、宮中の玉飾りの細工人《さいくにん》たちまでお憎《にく》みになって、それらの人々が知行《ちぎょう》にいただいていた土地を、いきなり残らず取りあげておしまいになりました。
それから改めて皇后の方へお使いをお出しになって、
「すべて子供の名は母がつけるものときまっているが、あの皇子は、なんという名前にしようか」とお聞きかせになりました。
皇后はそれに答えて、
「あの御子《みこ》は、ちょうどとりでが火をかけられて焼けるさいちゅうに、その火の中でお生まれになったのでございますから、本牟智別王《ほむちわけのみこ》とお呼び申したらよろしゅうございましょう」とおっしゃいました。そのほむちというのは火のことでした。
天皇はそのつぎには、
「あの子には母がないが、これからどうして育てたらいいか」とおたずねになりますと、
「ではうばをお召《め》し抱《かか》えになり、お湯をおつかわせ申す女たちをもおおきになって、それらの者にお任《まか》せになればよろしゅうございます」とお答えになりました。
天皇は最後に、
「そちがいなくなっては、おれの世話はだれがするのだ」とお聞きになりました。すると皇后は、
「それには、丹波《たんば》の道能宇斯王《みちのうしのみこ》の子に、兄媛《えひめ》、弟媛《おとひめ》というきょうだいの娘《むすめ》がございます。これならば家柄《いえがら》も正しい女たちでございますから、どうかその二人をお召《め》しなさいまし」とおっしゃいました。
天皇はもういよいよしかたなしに、一気にとりでを攻め落として、沙本毘古《さほひこ》を殺させておしまいになりました。
皇后も、それといっしょに、えんえんと燃えあがる火の中に飛びこんでおしまいになりました。
三
お母上のない本牟智別王《ほむちわけのみこ》は、それでもおしあわせに、ずんずんじょうぶにご成長になりました。
天皇はこの皇子のために、わざわざ尾張《おわり》の相津《あいず》というところにある、二またになった大きなすぎの木をお切らせになって、それをそのままくって二またの丸木船《まるきぶね》をお作らせになりました。そして、はるばると大和《やまと》まで運ばせて、市師《いちし》の池という池にお浮《う》かべになり、その中へごいっしょにお乗りになって、皇子をお遊ばせになりました。
しかしこの皇子は、後にすっかりご成人《せいじん》になって、長いお下ひげがお胸先《むねさき》にたれかかるほどにおなりになっても、お口がちっともおきけになりませんでした。
ところがあるとき、こうの鳥が、空を鳴いて飛んで行くのをご覧《らん》になって、お生まれになってからはじめて、
「あわわ、あわわ」とおおせになりました。
天皇は、さっそく、山辺大鷹《やまべのおおたか》という者に、
「あの鳥をとって来てみよ」とおいいつけになりました。
大鷹《おおたか》はかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国《きいのくに》、播磨国《はりまのくに》へとくだって行き、そこから因幡《いなば》、丹波《たんば》、但馬《たじま》をかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江《おうみ》から美濃《みの》、尾張《おわり》をかけぬけて信濃《しなの》にはいり、とうとう越後《えちご》のあたりまでつけて行きました。そして、やっとのことで和那美《わなみ》という港でわな網《あみ》を張って、ようやく、そのこうの鳥をつかまえました。そして大急ぎで都《みやこ》へ帰って、天皇におさし出し申しました。
天皇は、その鳥を皇子にお見せになったら、おものがおっしゃれるようにおなりになりはしないかとおぼしめして、わざわざとりにおつかわしになったのでした。しかし皇子は、やはりそのまま一言《ひとこと》もおものをおっしゃいませんでした。
天皇はそのために、いつもどんなにお心をおいためになっていたかしれませんでした。
そのうちに、ある晩、ふと夢の中で、
「私《わし》のお社《やしろ》を天皇のお宮のとおりにりっぱに作り直して下さるなら王《みこ》は必ず口がきけるようにおなりになる」と、こういうお告げをお聞きになりました。
天皇は、どの神さまのお告げであろうかと急いで占《うらな》いの役人に言いつけて占わせてごらんになりますと、それは出雲《いずも》の大神《おおかみ》のお告げで、皇子はその神のおたたりでおしにお生まれになったのだとわかりました。
それで天皇は、すぐに皇子を出雲へおまいりにお出しになることになさいました。
それにはだれをつけてやったらよかろうと、また占わせてごらんになりますと、曙立王《けたつのみこ》という方が占いにおあたりになりました。
天皇は、その曙立王《けたつのみこ》にお言いつけになって、なお念のために、うかがいのお祈りを立てさせてごらんになりました。
王《みこ》はおおせによって、さぎの巣《す》の池のそばへ行って、
「あの夢のお告げのとおり、出雲の大神を拝《おが》んでおしるしがあるならば、その証拠《しょうこ》にこの池のさぎどもを死なせて見せてくださるように」とお祈りをしますと、そのまわりの木の上にとまっていた池じゅうのさぎが、いっせいにぱたぱたと池に落ちて死んでしまいました。そこでこんどは祈りを返して、
「あのさぎがことごとく生きかえりますように」と言いますと、いったん死んだそれらのさぎが、またたちまちもとのとおりに生きかえりました。そのつぎには古樫《ふるがし》の岡《おか》という岡の上に茂《しげ》っている、葉の大きなかしの木も、曙立王《けたつのみこ》の祈りによって、同じように枯《か》れたりまた生きかえったりしました。
そんなわけで、お夢のこともまったく出雲の大神《おおかみ》のお告げだということがいよいよたしかになりました。
天皇はすぐに曙立王《けたつのみこ》と兎上王《うがみのみこ》との二人を本牟智別王《ほむちわけのみこ》につけて、出雲へおつかわしになりました。
そのご出立《しゅったつ》のときにも、どちらの道を選べばよいかとお占《うらな》わせになりました。すると、奈良街道《ならかいどう》からでは、途中でいざりやめくらに会うし、大阪口《おおさかぐち》から行っても、やはりめくらやいざりに会うので、どちらとも旅立ちには不吉《ふきつ》である、脇道《わきみち》の紀井街道《きいかいどう》をとおって行けば、必ずさい先《さき》がよいと、こう占いに出ました。一同はそのとおりにして立っておいでになりました。
天皇は皇子のお名前を永《なが》く後の世までお伝えになるために、その途中のいたるところに、本牟智部《ほむちべ》という部族をおこしらえさせになりました。
皇子は、いよいよ出雲にお着きになって、大神《おおかみ》のお社《やしろ》におまいりになりました。
そしてまた都《みやこ》へお帰りになろうとなさいますと、その出雲の国をおあずかりしている、国造《くにのみやつこ》という、いちばん上の役人が、肥《ひ》の河《かわ》の中へ仮《かり》のお宮をつくり、それへ、細木《ほそき》を編《あ》んだ橋を渡して、その宮で、皇子を、ごちそうしておもてなし申しあげました。
そのとき川下の方には、皇子のお目を慰《なぐさ》めるために、青葉で、作りものの山がこしらえてありました。
皇子はそれをご覧《らん》になって、
「あの川下に、山のように見えている青葉は、あれはほんとうの山ではないだろう。神主《かんぬし》たちが大国主神《おおくにぬしのかみ》のお祭りをする場所ででもあるのか」と突然こうお聞きになりました。
お供の曙立王《けたつのみこ》や兎上王《うがみのみこ》たちは、皇子がふいにおものをおっしゃれるようになったので、びっくりして喜んで、すぐに早うまのお使いを立てて、そのことを天皇にお知らせ申しました。
皇子はそれからほかのお宮へお移りになって、肥長媛《ひながひめ》という人をお妃《きさき》におもらいになりました。
ところがあとでご覧《らん》になりますと、それはへびが女になって出て来たのだとわかりました。皇子はびっくりなすって、みんなとごいっしょに船に乗ってお逃《に》げになりました。
するとへびの媛《ひめ》は、皇子のおあとを慕《した》って、急いで別の船をしたてて、海の上をきらきらと照らしながら、どんどん追っかけて来ました。皇子はいよいよ気味《きみ》が悪くおなりになって、あわてて船をひきあげさせて、それをひっぱらせて山の間をお越《こ》えになり、またその船をおろして海をお渡《わた》りになったりなすって、やっと無事に都《みやこ》へ逃げておかえりになりました。
曙立王《けたつのみこ》は天皇におめみえをして、
「おおせのとおりに大神をお拝《おが》みになりますと、まもなく、急にお口がおきけになるようになりましたので、一同でお供をして帰ってまいりました」と申しあげました。
天皇は、それはそれは言うに言われないほどお喜びになりました。そしてすぐに兎上王《うがみのみこ》をまた再《ふたた》び出雲《いずも》へおくだしになって、大神のお社《やしろ》をりっぱにご造営《ぞうえい》になりました。
四
天皇はそれですっかりご安心になったので、こんどはご不自由がちな、おそばのご用をおいいつけになるために、かねて皇后がおっしゃってお置きになったように、丹波《たんば》から兄媛《えひめ》たちのきょうだい四人をおめしよせになりました。
しかし下の二人はたいそうみにくい子でしたので、天皇は兄媛《えひめ》とそのつぎの弟媛《おとひめ》とだけをお抱《かか》えになって、あとの二人はそのまま家へかえしておしまいになりました。
すると、いちばん下の円野媛《まどのひめ》は、四人がいっしょにおめしに会って伺《うかが》いながら、二人だけは顔が汚《きた》ないためにご奉公ができないでかえされたと言えば、近所の村々への聞こえも恥ずかしく、とても生きてはいられないと言って、途中の山城《やましろ》の乙訓《おとくに》というところまでかえりますと、あわれにも、そこの深いふちに身を投げて死んでしまいました。
それから天皇はある年、多遅摩毛理《たじまもり》という者に、常世国《とこよのくに》へ行って、香《かおり》の高いたちばなの実《み》を取って来いとおおせつけになりました。
多遅摩毛理《たじまもり》はかしこまって、長い年月《としつき》の間いっしょうけんめいに苦心して、はてしもない大海《おおうみ》の向こうの、遠い遠いその国へやっとたどり着きました。そしておおせのたちばなの実の、枝葉《えだは》のままついたのを八つ、実ばかりのを八つもぎ取って、また長い間かかって、ようよう都へ帰って来ました。しかし天皇はその前に、もうとっくにおかくれになっていました。
多遅摩毛理《たじまもり》はその
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