」という意味を二つのお歌にお歌いになって、また改めて口子《くちこ》をお迎えにおやりになりました。
お使いの口子《くちこ》は、奴里能美《ぬりのみ》のおうちへ着きますと、天皇のそのお歌をかたときも早く皇后に申しあげようと思いまして、御座所《ござしょ》のお庭先《にわさき》へうかがいました。
そのときにちょうどひどい大雨がざあざあ降っておりました。口子《くちこ》はその雨の中をもいとわず、皇后のおへやの前の地《じ》びたへ平伏《へいふく》しますと、皇后は、つんとして、いきなり後ろの戸口の方へ立って行っておしまいになりました。口子《くちこ》は怖《おそ》る怖るそちらがわにまわって平伏しました。そうすると皇后はまたついと前の方の戸口へ来ておしまいになりました。口子《くちこ》はあっちへ行ったりこっちへ来たりして土の上にひざまずいているうちに、雨はいよいよどしゃぶりに降りつのって、そのたまり水が腰《こし》まで浸《ひた》すほどになりました。口子《くちこ》は赤いひものついた、あい染《ぞ》めの上着《うわぎ》を着ておりましたが、そのひもがびしょびしょになって赤い色がすっかり流れ出したので、しまいには青い着物もまっかに染まってしまいました。
そのとき皇后のおそばには、口子《くちこ》の妹の口媛《くちひめ》という者がお仕《つか》え申しておりました。口媛《くちひめ》はおにいさまのそのありさまを見て、
「まあおかわいそうに、あんなにまでしておものを申しあげようとしているのに、見ている私には涙《なみだ》がこぼれてくる」
という意味を歌に歌いました。
皇后はそれをお聞きになって、
「兄とはだれのことか」とおたずねになりました。
「さっきから、あすこに、水の中にひれ伏《ふ》しておりますのが私の兄の口子《くちこ》でございます」と、口媛《くちひめ》は涙をおさえてお答え申しました。
口子《くちこ》はそのあとで、口媛《くちひめ》と奴里能美《ぬりのみ》の二人に相談して、これはどうしても天皇にこちらへいらしっていただくよりほかには手だてがあるまいと、こう話を決めました。そこで口子《くちこ》は急いでお宮へかえって申しあげました。
「まいりまして、すっかりわけをお聞き申しますと、皇后さまがあちらへお出向きになりましたのは、奴里能美《ぬりのみ》のうちに珍《めずら》しい虫を飼《か》っておりますので、ただそれをご覧《らん》になるためにおでかけになりましたのでございます。そのほかにはけっしてなんのわけもおありにはなりません。その虫と申しますのは、はじめははう虫でいますのが、つぎには卵《たまご》になり、またそのつぎには飛ぶ虫になりまして、順々に三度|姿《すがた》をかえる、きたいな虫だそうでございます」と、口子《くちこ》は子供でも心得ているかいこのことを、わざと珍《めずら》しそうに、じょうずにこう申しあげました。
すると天皇は、
「そうか、そんなおもしろい虫がいるなら、わしも見に行こう」とおっしゃって、すぐにお宮をお出ましになり、奴里能美《ぬりのみ》のおうちへ行幸《ぎょうこう》になりました。
奴里能美《ぬりのみ》は、口子《くちこ》が申しあげたとおりの三《み》とおりの虫を、前もって皇后に献上《けんじょう》しておきました。
天皇は皇后のおへやの戸の前にお立ちになって、
「そなたがいつまでも怒《おこ》ったりしているので、とうとうみんながここまで出て来なければならなくなった。もうたいていにしてお帰りなさい」とお歌いになり、まもなくおともどもに難波《なにわ》のお宮へご還幸《かんこう》になりました。
天皇はそれといっしょに、八田若郎女《やたのわかいらつめ》においとまをおつかわしになりました。しかしそのかわりには、郎女《いらつめ》の名まえをいつまでも伝え残すために、八田部《やたべ》という部族をおこしらえになりました。
四
それからあるとき天皇は、女鳥王《めとりのみこ》という、あるお血筋《ちすじ》の近い方を宮中《きゅうちゅう》にお召《め》しかかえになろうとして、弟さまの速総別王《はやぶさわけのみこ》をお使いにお立てになりました。
王《みこ》はさっそくいらしって、そのおぼしめしをお伝えになりますと、女鳥王《めとりのみこ》はかぶりをふって、
「いえいえ私は宮中《きゅうちゅう》へはお仕え申したくございません。皇后さまがあんなにごしっと深くいらっしゃるので、八田若郎女《やたのわかいらつめ》だってご奉公ができないでさがってしまいましたではございませんか。それよりもこんな私でございますが、どうぞあなたのお嫁《よめ》にしてくださいまし」とお頼《たの》みになりました。
それで王《みこ》はその女鳥王《めとりのみこ》をお嫁になさいました。そして天皇に対しては、いつまでもご返事を申しあげないまま
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